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内的報酬を外的報酬へエネルギー変換する技術

なぜ、与えるひとが、すべて良いと、いいきれるのか考えたところ、発想がまず、間違っていたから、この考えを認められなかったのであろうと考える。私は常々、良い成績がおさめられないから、自分がダメな人間と、思い、思わされてきたのである。
しかし、この教育は、間違いであることが判明した。
これは、発想の転換で解決できる問題だと踏んで、ここからさらに、「良い成績を与えないから、残念と思うべき」という倫理を加えることにした。これは何をしたのかというと、成績が取れないから、存在や、人格そのものを否定する形をとれば、もはや、死せる病にかかるということであって、この発想を変えることに成功したというわけだ。
これは、エネルギー変換の技術であるといえる。この倫理、つまり「良い成績を与えないから、残念と思うべき」というものは、かなり得する考え方であり、これは、誰にも依存しない倫理的な言葉だといえる。
ではなぜ、たいていのひとが、この最初の発想に打ちのめされ、そのほとんどすべてのひとが、嫌な目に合い、そして、やり遂げもせず、終わるのだろうか。
そう考えたところ、中途半端にできるひとほど、このエネルギー変換が、うまくいっていないのではないか、と考えたのである。
つまり、内的報酬を、外的報酬に変換するこの技術こそが、エネルギー変換技術なのである。
これまでの教育方針や、中途半端な人間の排他的な、倫理観こそが、潜在意識にまで、働きかけ、そのように、無惨にも、やり遂げず終わらせるのである。
ここでいいたいのは、内的報酬が、外的報酬に変換されることが、すなわち、成績を取るということであり、まるで、それは、一価の陽電化を与える行為そのものではないか、と考えるのである。こうすれば、倫理的によく、かつ、いつまでも終わることのない、外的報酬という結論への無惨な回答も、消え失せるだろう。
私が思うに、

ほとんどのひとは、中途半端に、できる人間、つまり、少しの努力で、威張る人間、少しできたからといって、できないひとを追いやるという傾向、があるひと、そのひとによって、潜在的に傷つけられ、さらに努力するが、発想が、与えるということになっていないから、うまく、内的報酬を自ら満たせず、なぜ私は、このようなことをしているのか、という問いにさらに傷つくのである。

しかも、賢さとは、ここでは、発想そのものもさすことがある。ゆえに、このひとは、バカでどうしようもない、考え方、発想を持ち、何一つとして、良いところのないひとと、みなされ、かつ、自らみなしてしまう、真面目なひとになっているのである。
私はこの問題を指摘し、解決する糸口を見出した。
それが、この内的報酬を外的報酬に変換するというエネルギー変換技術あのである。
これは、発想の転換といえるだろう。
これがもし、

成功すれば、明らかに、努力し、かつ、成功を手にしやすくできる


この発想の根本は、与えられないことは、つまるところ、向こう側の人間の立場を理解する必要があり、誰もが、そうここでは、向こう岸の人も、こちらの岸のひとも、成功を望んでいるのであり、何も、あちらの岸のひとが、成績を悪くしよう、落とそうとしているのではないということであり、また、こちらは、組織を利用し、そこに立ち、自らの意志で、それを成し遂げようとしているのだからだ。
内的報酬には、内的報酬の考え方が必要であるということだ。

成績が取れない(マイナス)から、ダメ人間(マイナス)これは真っ赤な嘘「変化なし」で、成績を与えない「プラス」から、残念「マイナス」
は、真実

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