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ネイサン・グロスマン『グレタ ひとりぼっちの挑戦』

ネイサン・グロスマン『グレタ ひとりぼっちの挑戦』を観る。昨今注目を(いい意味でも悪い意味でも)浴びるゆたぼんというYouTuberに対して堀江貴文が「若いだけで注目されてるやつって価値ない」と一刀両断したが、私は素朴に「若いことを売りにして注目されるってすごいな」と思ってしまう。もちろん常識的に考えて若い人間には勉強して得られた蓄積もなければ下積み時代の苦労もないわけだが、しかしそんな「タブラ・ラサ(白紙)」の状態だからこそ見えるというか見抜ける真実というのもあるのかもしれないな、と思ってしまうのだった。ではこの『グレタ ひとりぼっちの挑戦』 においてグレタ・トゥーンベリはどんな真実を「見抜いて」いるのだろう。

そう思って逸る心を抑えてこのドキュメンタリーを観たのだけれど、どこか肩透かしを食う印象で終わってしまった、というのが正直なところだ。というのはこの映画でグレタの主張が吟味されないことがまず挙げられる。というか、そもそもこの映画を観ていてもグレタの主張がどういうところにあるのか、それすら見えない。いや広く括れば「地球を守ろう」「環境保護」というところに行き着くのだろうけれど、ではそのスローガンのために私たちはどういう行動が可能なのか、それが見えないのだ。ただ悲観的な現状認識を語り、そして政治家たちをなじり、「私たち(政治家ではない庶民)」が意識を高くして変えていかないといけない、と主張することで終わっているように映る。残酷だろうか。

引いては、私が知りたいと思っていたことなのだけれど「なぜグレタはそこまでして環境保護を訴えるのか」という問題も見えてこない。ただ単に「地球を守りたい」からというだけではないだろう。もっと幼い頃にあった体験やあるいは得た情報から学んだ悲惨な地球環境の現状、彼女の中で像を結ぶ未来予想図、といったものがあり得ると思うのだ。そうしたものを提示することは新たなファンを掴むことでもあるだろう。少なくとも私はそれを知りたい、と思った。そこまで考えさせただけでもある意味グレタの手中にハマっているとも言えるので、チャンスを逃したのではないかとも思ってしまう。

いや、挙げていけばもっと厳しく書けるのだけれどそうしていくとキリがないので褒められるところを書いておきたい。そうしてグレタの思いが明確に像を結ぶ類のドキュメンタリーではないため、彼女の「素」が見える。暑苦しさがなく、グレタ・トゥーンベリという10代の少女(いや、彼女はもう大人の女性なのか?)の「生」の佇まいが伝わってくる。それは肯定的に捉えたいと思った……そう考えると、このナチュラルさを損なわないためには暑苦しい政治的主張を削るしかなかったのかもしれない、とも勘ぐってしまいたくなる。やれやれ、私も汚い大人になったものだ。

と、書いて……このドキュメンタリーの肯定的なところとしては、そうした私の「汚さ」について考えさせられるところもあるのかもしれない。私も何を隠そうアスペルガー症候群/自閉症の人間なので、過去にピュアな自意識をグレタみたいに持っていたことを思い出させられた。だが、私の中にあったそんなピュアさはいつの間にか社会に出る中で様々な先輩たちに揉まれて、現実の壁の前に項垂れるしかなくなって消耗してしまったようだ。そんなことを考えれば、グレタのピュアさはイヤミではなく真に貴重なものなのだろうと思う。この映画を観て、私の心はそのようにしてチクリと感じてしまった。

だからこそ、なのだ。私の中にはグレタのように振る舞いたくて、でも同調圧力を跳ね除けてでも主張を貫く勇気がなく、そのヘタレさを冷笑でごまかしてしまっている自分がいることを感じる。いや、私は過去の話をしているのではなく「今」の話をしているのだけれど、そんな「今」の私から見ればグレタは流石だな、と思ってしまう。がゆえに、彼女を手放しで褒めちぎりヒロインにしてしまう風潮の方にも「否」と言いたいとも思うのだった。だから映画に関してかなり厳しいことを書いてしまった。ただ、この映画の余波で多分金曜日になればグレタの「ひとりぼっち」の抵抗を思い出す自分がいるのだろうな、と思ったのもまた確かなことなのだった。

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