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ドゥニ・ヴィルヌーヴ『DUNE/デューン 砂の惑星』

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『DUNE/デューン 砂の惑星』を観る。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画は好きなのだけれど、ただ「でも……」と留保をつけてしまうのが私の軟弱なところなのだった。観るのにそれなりに骨が折れるから、というのが理由として挙げられる。長尺の映画だからというのもあるし、同時に確かにエンターテイメントとして優れた達成を示しているとは言えその作品は同時に「渋すぎないか」とも思ってしまうのだった。私は紛れもない「知的スノッブ」だと自分自身を自覚しているのだけれど、それでもヴィルヌーヴの映画は「気軽に」どころかかなり慎重にかからないといけない、そのプレッシャーをどうしたらいいか考えている。

『DUNE/デューン 砂の惑星』 は何というか相当に「渋い」映画だ。「ツカミ」でこちらをガッチリ惹き込み、そこから冒頭の何十分かで映画のストーリー設定を説明し……という類の映画ではないように思う。むしろヴィルヌーヴの十八番の盛り上げ方でこの作品も成り立っているように思われたのだ。訳が分からなくてもその映像美や独自のスタイリッシュな演出で魅せていくのでこちらも惹き込まれてしまい、あたかも蟻地獄の巣に誘い込まれていくかのようにじわじわと呑み込まれる。そして「あ、自分はストーリーに呑まれている!」と思ってしまうのだがその段階においてはすでにヴィルヌーヴの手中にハマっているとも言えるのだった。

ヴィルヌーヴの映画はそれにしても、どこかこの現実世界を映し出したかのような深みを感じる。もっと言えば「隠れ社会派」的な匂いを感じるのだった。この『DUNE』 においても砂漠の民というか戦士たちの描写に中東のニュース映像がどうしてもオーバーラップしてしまう。もちろんヴィルヌーヴもそれをわかっていてやったことだろう。過去に『灼熱の魂』で社会派的なアプローチを見せたこの監督だが、この映画でここまではっきり(悪く言えば「露骨に」)中東の人々のイメージを被せたことは何か深い意図があるのではないか、と裏読みを誘われてしまう。いや、もちろん私にそんな裏読みを深める知識も能力もないわけだが。

そしてこの「貴種流離譚」である『DUNE』で主人公とその母が操るのが特殊な「声」であることもそんな裏読みを誘うのだった。「声」のトーンによって相手を操ることができる、という能力。これは大袈裟な言い方をすれば相手のアイデンティティを乗っ取るということだろう。『ブレードランナー2049』におけるレプリカントが苦悩するアイデンティティの問題や、あるいは『メッセージ』における主人公がエイリアンの言葉を習得する段階で自分自身を改変させられていく過程といった要素とオーバーラップするものを感じさせられる。このあたりヴィルヌーヴはどう思ったのだろうか。

悪く言えば、その中東のイメージの「借り方」においてどこか既存のニュース映像のリアリティを丸パクリしただけではないか、とも思ってしまうのだった……だがこれも「いや、丸パクリかもしれないにしても(もちろん、これは相当に慎重な議論が要請されるので私も断言は控えるが)エンターテイメントの中にそうした要素を持ち込むことはヴィルヌーヴの良心から出たものではないか」とも思えてくる。このラインからこの映画を論じると面白くなるのではないかなとも思ったのだが、どうだろうか。アフロ・アメリカンなどのマイノリティの描写の仕方もヴィルヌーヴらしく繊細で慎重だなと思ったのだが。

この映画、これで終わり……ではないようなのでこれからどう展開するか楽しみにしたいと思うのだった。そして、「PART TWO」が公開されるまでに私もヴィルヌーヴの過去の作品を改めて観直す作業が必要になるだろう、と。そしてもっと言えば「知的スノッブ」らしく、上のイメージの丸パクリ(難しく言えば「収奪」)をどう捉えるか考えたいのでエドワード・サイードの仕事を振り返ることが必要ともなろうな、と。やれやれ、またしてもヴィルヌーヴの映画を観たことで多くのことを考えなければならなくなった。ここまで考えさせられるからこそヴィルヌーヴは面白いのだが、この人の映画は慎重にかからないといけないなとも思ってしまう。

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