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2024/03/03 BGM: David Bowie - China Girl

今日は休みだった。実を言うと、今朝失態を犯しあらためて自分の至らなさを恥じた。というのはDiscordのとあるスペイン語がメインのサーバ(グループ)で、そこの他のメンバーたちがスペイン語で会話をしているにもかかわらずぼくは英語を使いすぎてしまったのだった。ひとえにこれはぼくが英語が万能な言語/ツールであり、ゆえに英語ならどこの国・どの地域でも使えると思い上がっていたがゆえの思い上がりだ。このことを、恥とともに記憶に刻み込むために記しておきたいと思う。

ついに今日、ぼくは何度かこの日記に記してきた英語研究会の集いに参加した。そこにおいて、岡倉天心の『茶の本』の輪読に勤しむ。だが、いざ声に出してぼくが読み自分が試みた翻訳を披露しようと試みたところ、すぐにぼくのその翻訳が実につたないものであることに気付かされた。だから、せっかくその場がいい雰囲気だったのに「えっと、この部分は……」とたどたどしく口ごもってしまい実に汗顔の至りだった。ああ! 他の参加者の方々が助け船を出されて、なんとか最後まで意見を言い終えられた(ついにホストの方が「すみません、もっと大きな声でしゃべってもらえますか」と言われた。マスクをつけっぱなしだったのだった……こんな機会でさえ、外すことさえ眼中になかったのである!)。

午後になり、約束していたとおり中国産のアプリの微信(WeChat)を使ってある中国の女性の友だちとおしゃべりに興じた。そこで彼女が英語を使ってぼくに合わせて下さったので、ぼくたちはビデオ通話でいい会話を楽しめた。彼女にぼくは、中国の詩の一節を紹介した。日本ではつとによく知られている「春眠暁を覚えず」である(今日は天気がよくてとてもとても眠かったので、この詩を思い出したのである)。そして、こんなことも言った。人生は1度きりだから、終わりの終わりまで満喫したい…この機会を彼女は楽しんで下さったようだ。でも、こんな辛気臭い話をしてしまってよかったのかなとも思い、また恥じてしまう。

こんな3つのできごとを並べてみて、ある事実に思い至る。英語を使うことはたしかに楽しい会話のひと時を満喫させてくれる(上に書いてきたように、だ)。でも、ある単純な原則に立ち返らないといけない。どんな言語・文化にも尊厳がある。いずれ、人が生み出したものは尊い。だから大事に対峙し扱う必要があろう。ああ、英語力・スキルのみならずこんな繊細な心をもぼくは養っていく必要があるようだ。それこそが異文化理解かな、と。

夜になり、沢木耕太郎『深夜特急』を少しずつ読み進める。このすばらしい巨編の旅行記からも、ぼくは上に書いてきたような「深い」心・態度を養うことができるのかなと思った。

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