2024/04/19 BGM: Joy Division - Love Will Tear Us Apart
今日は遅番だった。今朝、例のごとく読書タイムに菅野久美子『生きづらさ時代』というエッセイ集を読んだ。そして思ったのは、この著者はたしかに鋭い感覚を備えた人であるという印象だった。その感覚で実にあざやかにぼくたちがいかに「生きづらさ時代」を生きているか描写している。このあざやかさ・鋭さはぼくの印象ではチャック・パラニュークやブレット・イーストン・エリスにも匹敵する(もちろんぼくは彼らの作品をぜんぶ読んだわけでもないので必然的に大づかみな印象になるし、また結果としてできあがった作品はまさに「月とスッポン」であることも明白だが)。読み終えて、実に「トレンディ」なことについて思いが及んだ。それは「孤独」だ。
いま、インターネットを利用すればぼくたちはかんたんに・即座に友だちを作れる。日々目覚ましく発達するSNSやマッチングアプリを使えばいいのだ。でも、ぼくの見解では菅野はこのエッセイ集でたくさんの生活者のさまざまな病理に肉薄し、その病理が彼らをどう世界から孤絶させてきたか解き明かしているように思った。菅野は実に彼らの生活を黒子というかオブザーバー(観察者)の立場から眺めて捉えるのが巧い。テキトーな印象になるが、ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』の天使のように忠実に・誠実に捉えている。
言わずもがなだが、彼女はその芯に強い鋭利な意見を保持している。だが、それらをおだやかで篤実なやり方で表現している。とても平たい言葉で説明しているので、飲み込みやすいが確実に残るものを感じさせる。未読の他の彼女の作品を読みたく思った。そして、もちろん(これまた超テキトーに言及した)パラニュークやエリスの『ファイト・クラブ』や『アメリカン・サイコ』を読み返したいとも。
でも、そもそも「孤独」はどこから来るものなのか。考えていくと、実に簡明な事実にぶち当たる。いま、この星はインターネットにすっぽり覆い尽くされ「支配」すらされたように見える。ぼくに限って言えば、ぼくの生活はネットを介して世界中にたくさん友だちもでき、彼らといろんな話題(村上春樹の文学や、ジェネシスとかフィル・コリンズだとかの音楽)を分かち合える。
でもそんな豊かな人間関係の中にいようと、しばしばぼくは外部と切り離されて孤絶したように感じる。考えるに、こんな矛盾したようなアイデアにぶつかった。ぼくは人とすぐに会える。人にLINEなどでメッセージを送って、会話も楽しめる。「だから」孤独を感じるのかもしれない。いわば、人とそうして話していて感じる誤解やスレ違いこそこの孤独感のキモなのではないか。いや、もちろんこれは誰のせいでもないのだが。
ところで、実人生やインターネットでぼくはたくさんの友だちを持つが、過去ぼくはそれこそ「八方美人」を試みたりもしたのだった。完璧超人と言おうか。でも、それは無理だった(そりゃそうだ。ぼくはこの矛盾だらけのエッチな人格と24時間付き合っているのである)。だからぼくはアルコール依存症や発達障害のことも晒し、弱みや矛盾に悩む自分を見せることを自分に許した。でも、人はぼくの声に耳を傾ける。おかしな話だが、人生とはそんなものなのだろう。