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ウェイン・ワン『スモーク』

ウェイン・ワン『スモーク』を観る。出会いの持つ力について考えさせられる映画であると思った。例えばこの映画では出会うはずのない2人が出会う。作家のポール・ベンジャミンと黒人少年ラシードだ。かたや白人であり作家として活躍する(恐らくは思想的には「ど」がつくほどリベラルな)男。こなた隠し持つ事情ゆえに家から家へと彷徨い歩く生活を送らざるをえない黒人少年。そんな2人の出会いは、この映画の原作・脚本を手掛けたポール・オースターが十八番とする「偶然」によってもたらされたものだ。「偶然」はその後もこの映画を大きく左右するが、それが不思議と「ご都合主義」に感じられないのもあながち私の贔屓目だと言えないのではないか……とエラそうに書いてみる。

今回の鑑賞が何度目になるのか私自身数えていないのだけれど(数え切れないほど観た、というのはまあ言い過ぎになるが)、それでもこの映画を貫く「偶然」の力には驚かされてしまう。ネタを思い切り割ってしまうが、ラシードが持っていた金が彼が働くことになるオーギーの店で「やらかして」しまったミスの損失を埋めるために使われることになるのも「偶然」だろう。いやそこまで言い出せばあらゆることが「偶然」だろうと半畳を入れられるかもしれない。ポールが妻を亡くして傷心の身であることも「偶然」、オーギーの元にかつての恋人ルビーが現れるのも「偶然」、何でもありじゃないか、と。

確かにそうだと言える。のだけれど、ならばそうした「偶然」の持つ魔性の側面を知悉したポールの作劇が不思議と「クサく」ならないのは別のエッセンスを使いこなしているからとも思う。それは「父親」である。書店でポールとラシードはニセの父子関係を語る(もしくは騙る)。それ以外にもポールが説くスキーヤーの話や、ラシードが出会うことになる実の「父親」の生活ぶり、オーギーの元にやってきたルビーが自分の娘フェリシティに「父親」として会ってほしいと懇願するのも「父親」が重要なエッセンスとして結実している。こう書いてみて、あまりにもたくさん/ふんだんに「父子」が登場するので「よくもまあ」と思ってしまうくらいだ。

「偶然」と「父親」、そして「嘘」も大事なエッセンスだろう。この映画ではよく登場人物が「嘘」をつく。あるいは別の言い方をすれば「嘘」か誠かわからない話をして煙に巻く。批評家バフチン(字幕では「作家」となっていたようだが?)の話。ラシードがつきまくるキュートな「嘘」。あるいはポール・ベンジャミンの書くものは小説である。これも形を変えた、「嘘」を生業としている人間ということになろう。そして大ラスに控えたオーギーのクリスマス・ストーリーもまた「嘘」と解釈できる余地を残しているのだった。これが「嘘」の見本市でなくて何になろう。いや、ここまでくると技巧的過ぎる。

そんな技巧的過ぎるストーリーが脚本の段階で組み立てられていながら(実を言うとポール・オースターで卒論を書いた際、彼の脚本も読み込んだことがあるのだった)、それが俳優陣の演技によってさらに渋味や旨味を増したものになっていることもこの映画の面白さだろう。考えてみればオーギーのクリスマス・ストーリーだって、結局はハーヴェイ・カイテルの「ひとり語り」で展開される。あるいはラシードとサイラスの対面からその後の気まずい雰囲気のピクニックの場面にもつれ込むあたりもまた面白い。いや、見どころということで言えば他にもたくさん挙げられうる。

ついでながら今回の鑑賞で、オーギーが語る/騙る「嘘」の内容が盲目の黒人の老婆のところにオーギーが訪れるというところが私の興味を引いた。これは「黒人」の老婆と「白人」のオーギーの出会いということになるわけで、オープニングのポールとラシードが人種の違いを超えて出会ったことと呼応しているようにすら思わせられる。私が「偶然」という要素にこだわるのも、こうした出会うはずのない存在の出会いこそがドラマを生み出しうるという非常に古典的なセオリーに忠実にこの映画が出来上がっていることが面白いと思うからだ。ウェイン・ワンとポール・オースター。いい才能が出会ったものだ。恐らくは「偶然」。

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