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ジョージ・クルーニー『僕を育ててくれたテンダー・バー』

ジョージ・クルーニー『僕を育ててくれたテンダー・バー』を観る。ネットスラングの一種で「親ガチャ」という言葉がある。これは要は昔から常識だった「子は親を選べない」という事実をガチャガチャに喩えて人生は運任せの要素もあるということをクリティカルに突いたものだ。つまり、人生は平等ではありえない、と。もちろんこのスラングを「甘えるな」と切り捨てることもできるだろうが、ロスジェネである私の世代あたりから見える光景として「どうあがいても親ほど稼げない」という現実が現前しているのを見ると単なる「甘え」とは言えないとも思うのだ。そんなことをこのジョージ・クルーニー初監督作品で思った。

この作品は実に素朴にひとりの男の子が成長してイェール大学に入り、そこから作家になるべくさらに修業を重ねて大人になっていく様を綴った自伝である。このJRという男の子は父親がラジオのDJで、母と彼自身を放り出してラジオ番組の仕事に明け暮れる日々を送っている。つまりJRはシングルマザーの下で育てられ、そこから母親自身の家庭に戻らざるを得ずその大家族と共に過ごす日々を始める、ということになる。この大家族との生活が始まったところから映画は始められる。ひとりの男の子の成長物語として(私はアホなので夏目漱石『三四郎』を思い出したのだが)オーソドックスであり、かつシンプルに勝負した作品であるとも思った。

この映画ではその設定上、父親ではない大人たちがJRの世話を焼く光景が綴られる。バーテンダーの叔父、そして口の悪い祖父……いずれも一癖も二癖もある人たちばかりであり、特に叔父は子どもを自分が経営するバーの中に入れて大人たち(状況から考えて酔漢もいるだろうとも思うのだけれど)と対等に扱う育て方を見せる。そうした早すぎる大人への目覚め、もしくは大人になるための手ほどきを行う環境の中でJRの早熟な才能が見出され、バーの常連客の中には彼を「神童」と呼ぶ者も現れる。叔父は彼に本を読ませ、一人前の男とさせるべく鍛え上げる。そんなレッスンが事細かく描写される。

実に男臭いというか、男ウケする場面がてんこ盛りに出てくる話だなとも思う。多様性の時代に大丈夫なのか……というのはもちろん余計な茶々ではあるのだけれど、そんなむさ苦しい男たちの世代を超えた繋がり、あるいは世代を踏まえた教育ぶりが説得力を以て伝わってくるあたりはジョージ・クルーニーという人の腕前からなのかなと思ってしまう。余計な下世話さがなく、実に手堅くそれでいて様々な台詞が浮き立つように撮られているなと思ったのだった。もちろん「原作をそのまま映画化しただけだ」と言われるかもしれないが、ならその素朴さが味になっていると答えたい。

この映画では女性も重要な要素として登場する。男臭い映画に見合ってJRのガールフレンドとして登場する女性はたった1人。その1人の女性に見事に翻弄され、大きく揺さぶられる様子をあられもなくJRは見せる。ここでガールフレンドの両親と一緒に食事を摂る場面があるのだが、ここがなかなか微笑ましい。幼い頃からテーブルマナーなんてものと無縁に育ったJRのトンチンカンな言動にこちらもヒヤヒヤしてしまうし、その言動に対して冷徹にイヤミを言う両親の落ち着きぶりも面白い。こうした喜劇的な要素もこの映画の面白味であると思った。もっとこんな場面があってもよかったのではないか。

この映画を私は、例えば(いつもながら気まぐれに挙げるが)『マンチェスター・バイ・ザ・シー』といったピリッと辛い大人の映画の傍に置きたく思う。時代背景が見えない映画となっていることもあって、地味にエバーグリーンな青春映画/成長物語の佳作として親しまれるのではないだろうか。そして最後の最後、自分を顧みなかった父親との「対決」を経て彼はもう一皮剥けた大人へと成長し、叔父の車を飛ばしてマンハッタンへと走っていくのだ。こんな清々しいエンディングを置いたところもこの映画の美点であると思い、ジョージ・クルーニーの「これから」の映画に思いを馳せてしまう。

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