ビル・ポーラッド『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』
ビル・ポーラッド『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』を観る。人生においてつらいことがあるとすれば、多分そのひとつは「自分の課題/ミッションが見つからないということ」かなと思う。その場合、生きるために生きなければならないという同語反復的/トートロジカルな、つまりは不毛に「食うために生きる」人生、消化試合のような人生を送るしかなくなるわけだ……と相変わらず飛ばしてしまったマクラになったが、この映画を観て思ったのも「どう生きたらいいかわからない」人、常に他人によって人生を操作されてきた人の哀しさかなとも思ったのだ。だからこそこの映画のハッピーエンドを支持したいとも思った。
この映画は2つの時間軸を交差/クロスする構造を持っている。泣く子も黙るビーチ・ボーイズの頭脳ブライアン・ウィルソンを描いた映画なのだけれど、一方の時間軸では『ペット・サウンズ』を制作している状況が語られる。もう一方ではそこからさらに時間が経ちそのブライアン・ウィルソンがひとりの女性と出会う場面、そして彼女によってブライアンを取り巻く環境が大きく変わる状況が語られる。一見するとブライアンの生涯を無作為に(つまり、ただ「美味しい」エピソードを)つまんだだけとも思われるこの映画は、実は先にも書いた「脱出」「再生」でつながっているのではないかとも思った。その先にある未来へと。
だが、この映画を単純に「ブライアンのサクセス・ストーリー」と受け取るのは早計かもしれない。というのは、この映画はビーチ・ボーイズの歴史を丁寧に教えてくれる類のものではないからだ。それこそ「サーフィンUSA」くらいしか知らないファンはあらかじめ『ペット・サウンズ』を聴いてから触れた方がいいかなとも思う。だが、それでもこちらをグリップする力に満ちた映画として受け取れるとも思った。それは作中でふんだんに盛り込まれているビーチ・ボーイズの珠玉の名曲群、そしてそれが練り上げられるまでの経過を丁寧に描いているからとも思う。セッションを重ねて曲ができるところは『ボヘミアン・ラプソディ』にも似て、こちらを興奮させる。
そんなある種不親切な(?)作りの映画の中から浮かぶのはブライアンが決してやりたい音楽を作れたわけではなく、むしろ周囲の軋轢に苦しみなおかつ自分自身の音楽を見極めるべく苦悶したという事実だ。『ペット・サウンズ』時代のブライアンの中には(冒頭のモノローグが語るように)まさに「ギフテッド(与えられた)」何かが常に彼に曲を作るようけしかけ、インスピレーションを与えてきたことがわかる。そして「その後」のパートでは独善的な医師によって音楽制作を強いられ、薬漬けにされて廃人同様に成り果てたブライアンの姿が見えてくる(そんな廃人のブライアンの駄作にもそれなりの価値はあると、医師は強引に曲を作らせる)。
そう考えると、ブライアンに必要だった人というのが見えてくる。それはブライアンの状況を正しく理解した人だ。決してブライアンを天才と手放しで褒めちぎる人ではない。ここは複雑な読みになってしまうのだが、強引な医師だってブライアンの父親だって実は彼を真っ当に理解しようとして、結果として誤診してしまったり横暴な態度に出たりしたのかもしれない。だが、ブライアンはついにソウルメイトたる女性と出会い、彼女の理解によって苦境を脱出できたのだった。その意味ではこの映画は決してブライアンを巨匠扱いしていない、1人の等身大のミュージシャンとして描いたヒューマン・タッチな作品として評価できるかなとも思った。その温かみに打たれて私も少し泣いてしまった。
私が物心ついた時、ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』は泣く子も黙る「不朽の名作」であり、その後の『スマイル』は「失われた名盤」だった。ブライアン・ウィルソンも表舞台から消えたミュージシャンだった。だが、ブライアンはこの映画が描くようについに劇的/感動的な復活を果たし、『スマイル』を完成させその存在感をこちらに見せつけた。その舞台裏でこんなつらい出来事が起きていたのかと思わせる(いや、それを言い出せばサーフィンなんてできないのにビーチ・ボーイズのパブリック・イメージを背負っていたわけだけれど)。いや、思わぬ掘り出し物と出会ったかなと思わされた。
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