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クリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』

クリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』を観る。恥を忍んで言えば、私はこれまでクリント・イーストウッドの映画をきちんと観てこなかった。いろいろ原因はあるが、思想信条が自分と真逆の人物らしいという前評判に怯んでしまい「敬して遠ざける」心理が働いてしまったようだ。あとはシネフィルの間で評価が相当に高いこともそうした心理に拍車を掛けたのかもしれない。だが、今回虚心に観てみて自分の浅はかさに我ながら呆れたのだけれど、同時にこの監督の映画を味わうにはまだ自分は修行が足りないかなと思ったことも確かだった。ゴダールやキューブリックを味わうように観るようには行かないな……と思ってしまったのだった。

『アメリカン・スナイパー』を観ていて、考えてみれば自分は戦場に立ったことがないなと思ってしまった。日本で「戦場に立った経験がある人」を探すのはなかなか難しいことだと思うのだが、それでも戦場の空気というのは頭でシミュレートするだけでは体感しづらいところもあるのではないかと思う。この映画で「伝説」と称される狙撃手クリスは4度戦場に戻っていくことになるのだけれど、彼の意識の中でそうした経験は彼の現実認識をどう変えてしまったのだろうかと考えると興味深い。PTSD/トラウマに苛まれるわけでもなく、しかし楽天的なマッチョイズムを貫くわけでもなく、彼の戦場への愛憎が入り混じった感情はこちらを深く考えさせる。

そう、私が不安に思って二の足を踏んでしまっていたのもそんな「マッチョイズム」が匂ってきたらどうしようかということなのだった。だがイーストウッドのこの作品はそんな単純な戦争を美化する類のものでもなく、また反戦平和に落ち着くものでもない。むしろ、そんな単純な整理を拒むように戦場のリアルをこちらにまざまざと見せつける。従ってわかりやすいドラマを求める観客には少しキツいかもしれない。「退屈」もしくは「わかりにくい」と受け取られる可能性は充分にあると思う。戦場の生々しいリアルを、どんなメッセージ性を持つものとしても加工せずに見せつけること。それがイーストウッドの狙いではないかなと思う。

戦場の生々しいリアル……だが、私たちは意外とそんな「リアルの戦場」に触れる機会が少ないのではないだろうか。テレビやネットのニュース報道で映し出される戦場は、一見すると生々しいようでありながら実はあらかじめメディアによって加工されて口当たり良く料理された戦場でしかない。それがノンフィクションで描かれる戦場であろうと、ドラマの戦場であろうと同じだ。イーストウッドがこの映画で狙ったのはそうした風潮に抗うことではなかったかなと思う。それが成功しているかどうかは私には何とも言えない。だが、燻し銀の映像に乗せられて届く戦場は充分にスリリングな様相を呈している。

それにしても、これはなかなか男臭い映画であると思った。9.11やイラク戦争にチラリと触れながらストーリーは進行していくのだけれど、一歩間違えるとそれこそジョージ・ブッシュが体現していたような「目には目を」「やられたらやりかえせ」なマッチョイズムを押し出しているようにも受け取りうる。が、この映画はアメリカ・ファーストなところが皆無とは言わないまでも、アメリカの覇権を楽天的に賛美しているものではないことに留意したいと思ってしまう。イーストウッドの中での戦場、及び男の世界とはもっと複雑なパワーポリティクスに彩られた「苦い」「ビターテイスト」なものなのだと思う。

この映画を観て、私はもっとクリント・イーストウッドの映画を観ようと思わされた。音楽を極限まで使わず、贅肉を削ぎ落としたストーリーテリングでドラマを進めていくその手堅さ(ハードボイルド、と言ってもいいのではないか)に惹かれ、もっと触れたいと思ったのだ。そうこうしていると私のイーストウッド観や引いては映画への態度が鍛えられるのではないか……と思うのは安っぽいだろうか。だから今回のこの文章は文字通り駄文でしかありえないのだけれど、それでも書き残しておくことで自分の成長をいずれ確かめられればと思ったので書いてみた。何かしら伝わるものがあれば幸い、なのだけれどどうだろう。

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