スチュアート・マードック『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』
スチュアート・マードック『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』を観る。実にみずみずしい映画だな、と唸った。このスチュアート・マードックという人はグラスゴーから90年代に颯爽と現れたベル・アンド・セバスチャンというバンドのフロントマンなのだけれど、確かに才人のオーラが感じられる人ではあったけれどここまで美意識を尖らせた映画を送ってくるとは……さすがに映画を撮り慣れているわけではないためいろいろ素人臭いところはあるのだけれど、それでもその素人臭さが味となってこの映画を彩っているとも思う。でも、考えてみればベルセバの音楽だって充分に「素人臭い」とも言えるのだが。
拒食症で入院中の少女イヴが、そこから抜け出してグラスゴーのライブハウスを訪れたりして冒険を重ねる。その過程で出会ったギタリストのジェームズ、そして彼が作曲を教えているキャシーとバンドを結成するドラマを描いた話である。このような設定の映画は(敢えてこんな言い方をするが)腐るほど作られてきた。近年の達成として私が思いつくのはジョン・カーニーの映画だが、他にもたくさん挙げられうるだろう。だからこそ差別化が必要となってくるわけだが、この映画はポップな色彩美や堂に入った美メロが印象的な歌をふんだんに盛り込むことで立派なオーラを醸し出している、と言える。
それにしても……思うのはこうしたセンスの競い合いというか、悪く言えばスノッブな振る舞いというのは古今東西変わるところがないのだな、ということだ。この映画でも主人公たちは(特にイヴは作中でトルストイ『アンナ・カレーニナ』を読みこなしているくらいの)文化系男子・女子ぶりを発揮してフライヤーのデザインに凝り、音楽にしても今どき誰が使ってるんだというようなカセットテープに録音するスノビズムを見せている。こうしたスノビズムは日本の渋谷系の音楽シーンで散々見られた光景だが(私も素人のリスナーとして末端にいたことを告白しておくが)、何だか白けてしまうのを通り越して微笑ましささえ感じてしまう。
そうしたスノビズムの根底にあるのは、結局は自分の基準が絶対に正しいと信じる態度だ(それは引いては、自分自身に世界を変える才能があることを信じる態度でもあるだろう)。まあ「若気の至り」で済む話なのだが、そうした独善性をこの映画の男女3人も発揮して何気に/さり気なく周囲の男女たちをバカにし、「あいつら」と「僕たち」の間に線を引いて考えようとする。そうした独善性が現実とぶつかってへし折られて大人になる、という展開になるか。もしくはその才気が本当に世界を変えてしまうか。この映画はそのどちらにも向かわない面白い方向に転がっていくわけだが、さすがにネタを割るのは慎みたいと思う。
それにしても、人はどうして音楽を奏でるのだろう。誰からも頼まれたわけでもないのに、彼らは人に自分たちの音楽を伝えようとして奔走する。その努力(の空回り)を嘲笑するのは実に容易いが、私はその容易さに乗っかりたくないとも思う。それを言い出せば私だってこの駄文を頼まれもしないのに書いているのだから。渋谷系にしてもジェームズやイヴのバンド活動にしても、そうした自発的な衝動(平たく言えば「僕でもできる」という目覚め)が根底にあったのだった。ならば、この映画はそうした根底にあるべき衝動を閉じ込めて表現することに成功していると言えるのではないかと思う。
それにしても、ここまで音楽で展開させる映画だとその構造が必然的にもたらす欠陥についても触れなくてはならなくなる。「ポロンポロン……」と音色を鳴らせば「それっぽく」ドラマが進むということは、セリフや演技に依存しなくともそれなりに「イイ感じ」を保てるということなので、この映画が持たなくてはならない説得力やリアルさが犠牲になっていないか、ということだ。もっとも、そんな生々しいというか暑苦しいバンドのサクセス・ストーリーをこの映画に求めている人などそんなにいるものでもないのかもしれないとも言える。すべてはベルセバの音楽のように夢見心地でポップで、そしてエバーグリーンな美しさの中に閉じ込められて、そして私たちが鑑賞するのを待っているとも言える。
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