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2023/08/09 BGM: Robbie Robertson - Coyote Dance

今日は休みだった(水曜日なので)。ここ最近Twitterを見ていて、あらためて戦争について考える。とはいえぼくは根っからのひねくれ者なので、高校生の時に読んだ山崎浩一の「戦争は8月が旬だ」という言葉を連想する(正確な引用ではないが、『リアルタイムズ』という著作で読んだ)。戦争についてはもちろん言うまでもなく「常に」「一年を通して」考え続けたいとはぼくだって思う。だけど、8月の敗戦間近に起きたさまざまな出来事を「きっかけ」として考え始めることも無為・無駄ではないだろう。広島や長崎の惨禍について考え、終戦記念日(敗戦記念日)について考える。そこから「あの出来事はどうして起こったのか」「あの出来事はその後何をもたらしたのか」と考え始めていくことが大事だと思うのだった。ぼくは太平洋戦争を知らない。1975年に生まれたぼくがリアルに「戦争とは何だろう」と考え始め、そこから「日本に何ができるだろう」「日本人としてぼくは何をすべきだろう(できることがあれば、の話になるけれど)」と考えるようになったのは湾岸戦争からの話だ。戦争はいつだって「よその国」の出来事だった。その「当事者意識の欠如」が果たしていいことなのかどうか……いや悪いことばかりでもないと思うけれど。

そんなことを考え始めたので今日は朝、Twitter(現X)で友だちに薦められたこともあって図書館に行きそこで岩波現代文庫の『石原吉郎セレクション』を借りる。すっかり詩人気取りの毎日だ。石原吉郎についてはシベリア抑留体験があったということや、代表的な詩文・エッセイを少しかじったことはあった。辺見庸のエッセイを愛読していた時期があったので(アメリカ同時多発テロやその後のイラク戦争の時期のことだったと記憶している)、辺見が敬意を込めて引用する石原をいずれきちんと読まないといけないという思いはあった。これから腰を据えて、自分なりに真面目に読めればと思う。そして、そうした「死と隣り合わせ」に生きた人、やや手垢のついた表現を使えば「極限状態」を生きた人のことを思った。過去はそうした「極限状態」が普通だった。今はたぶんビッグモーターの報道が語るような「ブラック企業」が「極限状態」を味わわせるところなのだろう。いや、ぼくもビッグモーターのことは内実を報道程度でしか知らないのだけれど、いつどのような時代にもそうしたシビアな環境はありうる……と書くと「シベリアとブラック企業を一緒にするな」と言われるかもしれない(ぼくも「さすがに勇み足だったかな」と思い始めてきたので、これについてはもっと考えを深めたい)。

昼、ご飯を食べた後昼寝をした。その後イオンに行きフードコートで詩作。今回はキング・クリムゾン『レッド』を聴く。だが、頭の中でぼくの詩の材料がストックされているはずの「冷蔵庫」を見つめても空っぽ。この盛夏で頭も夏バテしてしまったか、ふだん読書をサボってしまったことがついにツケとなって回ってきたか。しょうがないので塩分チャージタブレットを舐めながら(涙のような味がした。ぼくの涙は薄味なのだろうか)うんうん唸って考え、やっとのことでひねり出す。キング・クリムゾンについて書いていたはずがいつの間にかニルヴァーナやセックス・ピストルズにつながる。ロック史的にはまったくもってデタラメなのだけれど、そこは詩ということで許して欲しい。その後はアンビエント・ミュージックをテキトーに聴きながら涼む。デタラメということで言えば、ぼくは系統立てて文学史を追いかけてきたわけではないのである。多様に……と言えば聞こえはいいけれど要は手当たり次第に「今日は蜂飼耳を読んだけど、明日は趣向を変えて小川洋子や平出隆を読んでみようか」と読み進めてきた。オリジナリティやユニークネス、というのはそうした「気まぐれ」「デタラメ」から生まれるのかもしれない。これもまた考えたい。

夜、断酒会に行く。そしてそこで自分の体験を語る。日曜日にバーベキューを楽しんだこと。そこから過去、空きっ腹にビールをありったけ注いでご飯を食べたこと。酒に溺れた末期はそんな感じで「食べる前にとにかく酒を、浴びるようにごくごく呑む」生活だったことを思い出す。うっかりすると酒で胃が満ちるのでそのまま何も食べないで寝てしまうことさえあった。栄養失調まっしぐらである。今は施設のスタッフや世話人さんの料理をおいしくいただけている。普通の生活だ。シラフで、この時期だとそうめんや夏野菜の天ぷらを楽しむ……そんな中にこそ幸せが転がっているものなのだ。そして、このようにして幸せを楽しめるところまでずいぶん長かったとも思った。夜、荒川洋治や松下育男の詩を少し読む。荒川洋治が女性のおしりについての詩を書いているのを読み、ドキッとしてしまう。そうした性的なモチーフを「鋭く」「クリティカルに」綴るところがさすが熟達した日本語の使い手だなと思い、「ぼくも『オレオレ』な詩ばかり書いてないでこうしたエロティックなものも書いてみたい」とも思い始める。だが、書くといつだって「デタラメ」なものになってしまうのである。日本語は難しい。

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