2023/02/25 BGM: Mr.Children - ニシエヒガシエ
読書メーターというサイトで読書の記録を綴るようになって8年が経つのだけれど、ふと振り返ってみて私はやはり自分はおかしいというか「ビョーキ」だなと思ってしまう。記録を始めてからこの8年間、今日に至るまでで私は1340冊の本を読んだそうだ(ただし同じ本を2回読んだ場合は2冊とカウントする)。いや、私は荒俣宏でもなければウンベルト・エーコでもないので「博覧強記」なんて境地にはぜんぜん達しておらず、それどころかただ時間を浪費しているだけという実感さえひしひしと感じている。こんな風に読書で時間を無為に潰している間にも芝山幹郎や町山智浩は映画を観て修業を積んでいるし、坂本龍一は運指の練習を重ねている……とまあ自虐的になりすぎてしまったが、言えることがあるとしたら私にとって読書とは何ら人間成長だとか自己啓発だとかいった美しいものではなく、ただの暇つぶしの一環であるということなのだった。そして、ひねくれた言い方をするなら「だが、それがいい!」という類のものであるも思ってしまうのである。
こんな話になると私はチャック・パラニューク『ファイト・クラブ』や村上春樹『アフターダーク』、そして村上龍の『ライン』などを思い出してしまうのだけれど、私自身はやはりどこか「壊れている」のだなあと思ってしまう。だからこそ自分は大量に本を読み、音楽を聴き英語を学ぶ。上述した春樹や龍の小説は私に「人はまともに生きようとすればどこかで『壊れる』しかない」と教えてくれる。「壊れている」要素は私の中にはまだまだある。マゾヒスティックなところやアルコール依存症、強迫神経症。いつも本を3冊は持ち歩いていないと落ち着かないので、ちょっと出歩くにも苦労する。あまり書くとみっともない「不幸自慢」というかカミングアウト・ワールドカップになってしまうので控えるが、ともあれここまでの記述が明確に語るように私は「ビョーキ」である。多分宍粟市の読書家を決めるグランプリがあれば私はけっこういいところまで行くかもしれない……ごめんなさい。この話にオチはありまおんせん。
グループホームの施設長の方がそれこそ「西へ東へ」と走り回って下さったのでWi-Fi環境も再び整い、ネットが繋がるようになった。それで私もホッとしてバーズやバッファロー・スプリングフィールドを聴きながらテジュ・コール『オープン・シティ』を読む。あまりカタカナばかり使うのもみっともいいものではないが、どう訳していいのか悩ましい「アクチュアル」という言葉が思い浮かんだ。黒人作家という立場からマイノリティとして眼前に広がる不条理に率直に切り込み、「果敢に」物申す姿勢に凛々しさを感じる(アメリカの作家らしく同時多発テロにも言及し、「前向き」かつ「外向的」に思索を綴るところも目を引く)。前にも書いたが、確かにゼーバルト『アウステルリッツ』の世界に人種問題を盛り込んで再構築/リメイクしたらこうなったという印象を感じさせる。オーソドックスな小説とは一線を画す知性派の逸品、という印象を抱いた。
知り合いの元ひきこもりの方で、今はひきこもり当事者や家族のために支援に走り回る方のところに市からサポートを依頼されたという知らせが届いた。彼のことは「畏友」と思っているのでこの知らせを私も喜ぶ。思い起こせば、私が大学を卒業したばかりの頃に斎藤環の本でひきこもりについて学んだことを思い出す。その頃はまだまだ私は自分の自閉症のことも知らず、職場ではひたすら足蹴にされ家に帰れば酒に溺れる日々を過ごしていた。その後、その彼や現在交際させてもらっている方々(発達障害を考える会の方々や断酒会の方々、宍粟市国際交流協会の方々)と出会って……こうして振り返ってみると私は相変わらず独身のままちゃらんぽらんに生きて読書や音楽を楽しんでいるのだけれど、実はタモリ倶楽部よろしく「流浪」そのものを生きてきたのかなと思ってしまう。「流浪」の日々、「彷徨う日々」を村上春樹や片岡義男をバイブルに、旅人が北極星を頼りに自分の居る位置を確かめるように生きてきた。そして、これからもこんなスットコドッコイな人生を生きる。時にはU2やミスチルの新譜に酔いつつ。