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ウォン・カーウァイ『欲望の翼』

ウォン・カーウァイ『欲望の翼』を観る。ジャン=リュック・ゴダールの映画は車と女と拳銃でできている、と喝破したのは誰だっただろうか(ゴダール自身の自己言及という説もあるが、結局確認できていない)。確かにゴダールの映画はドンパチだったりソフィスティケートされた女性だったりが華として欠かせないなと思うので、この指摘にはついつい唸らされてしまう。そして、今回このウォン・カーウァイの初期の逸品を観てふとこんなことを考えてもしまったのだった。ウォン・カーウァイの映画は何でできていると言えるんだろうか、と。私は『恋する惑星』『花様年華』くらいしか観ていないので、この線からウォン・カーウァイの映画を掘り下げるのも面白いかなと思い始めている。

ただ、そんなトーシロな私ではあるのだけれどウォン・カーウァイの映画に欠かせない要素を挙げるとするならひとつは「女性」かなとも思う。今まで観てきた映画でもウォン・カーウァイの映画では女性の佇まいは非常に魅力的に描かれていた。そしてもうひとつは「夜」ではないかなとも思うのだった。『恋する惑星』『花様年華』でも「夜」の場面が生々しくこちらの記憶の中で迫り出してくる。それこそ「あれ? 昼の場面ってあったっけ?」と思ってしまうくらいだ。あともうひとつか2つ挙げてもバチは当たらないだろう。では、いったい何を挙げればいいだろうか。

それは、ひとつには「モノローグ/独り言」ではないかなとも思う。『花様年華』は観返してみないとわからないのが情けないけれど、それでも『恋する惑星』では主人公(が2人いるのがあの映画のややこしいところなのだけれど……まあ2人とも、かな?)のセンシティブ/繊細な内心を披露するひとり語りが印象的なのだった。それこそ村上春樹の小説を思わせる……そしてその独言には必ずと言っていいほど哲学的な(悪く言えば高踏的な)要素が入り込んでいた。この『欲望の翼』でも主人公に過去の特定の時間を忘れさせないような質問をヒロインがする、そのことについて(他人に話しかけてはいるけれど、半ば自分に言い聞かせるように)男は話し出す。

こうした小理屈をふんだんに盛り込んだ独言が、しかし作品の中でそんなに「クサく」感じられないのは(正確に言えば「クサい」かもしれないけれど、それが「味」のように思えるのは)多分に私たちのリアルを照射した独言が展開されるからだろう。私たちだって一人称の世界(つまり「僕」「私」という主人公の自我を自覚した世界)に生きていて、言葉を通して世界を認識している。だが、それをいちいち確認しながら生きるのは骨が折れるので私たちはすんなりと、あたかも呼吸することを自覚しないで呼吸するように言葉を通して世界を認識する世界に同化して生きている。

『欲望の翼』『恋する惑星』(『花様年華』は保留させてほしい)の独言は、そうした私たちのリアリティに貼り付く類のものだろう。それが共感を呼ぶからこそ、一度観たらなかなか忘れられないものとして残るのだと思う。ウォン・カーウァイはその意味で、「つぶやき映画」とでも呼びうるものを作ったのかもしれない。いや、彼がこの路線を深化させたか捨てたかまでは私にはわからないのが情けないというか、トーシロの限界ではあるのだけれど私はこの、事務的に評価すれば荒っぽい出来と言える『欲望の翼』を好きになり、引いてはウォン・カーウァイを好きになってしまった。もっと彼の映画を掘り下げようと思う。

あとひとつ要素を挙げさせてもらえるだろうか。「女性」「夜」「独言」の他にあるとしたら「香港」だろう。国際都市であり洗練された都会、それゆえに一種不夜城として夜を明るく彩るこの都市は同時に主人公たちの生活の場であり、従って彼らが訪れる屋台やレストランは生活の匂いをこれもまた「クサく」ならない程度にスタイリッシュに表現する。そんなスタイリッシュな映像と哲学的/思弁的なモノローグに惹かれてこの映画を堪能することができた。この映画を観たことはもしかすると忘れてしまうかもしれないが、登場人物がラスト近くで放った質問は多分私の中に残留し続けるのではないかな、とも思われる。

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