見出し画像

牡蠣と小さな城

 牡蠣を食べると、あの子のことを思い出す。

 大学のひとときにすれ違った、友だちと言っていいのかも分からない、あの子。

 管弦楽部で燻っていたときに軽音サークルを覗きにいって、コピーバンドを組むことになった、あの子。


 高校からの音楽仲間に、軽音サークルを紹介してもらった。大抵の楽器の心得はあったから、余っていたバンドにキーボードとして入れてもらった。

 あろうことか、文化祭にも出た。管弦楽部の出店はないから、縁遠いものだと思っていたのに。赤い法被を纏った実行委員が、すごくきらきらしていた。私の人生に訪れるはずのないタイプの青春に、途中合流した。

 顔なじみも少ない中、店番を手伝って、教室のライブにも参加した。みんなが知っている、流行りのグループの曲を演奏した。そんなに好きじゃなかったけど、曲は知っていたから、コードを追うのは容易だった。顔を覚えてもらおうと、いくつかのオカズも加えた。多分、原曲にそんな音はなかった。

 耳任せに、酷いキーボードを弾いた。打ち上げがあったのか、なかったのか、覚えていないくらい馴染んでいなかった。所詮、ヨソモノだったし、最悪の演奏をしたから。


 文化祭が終わったあと、どんな経緯か忘れたが、反省会と称して、ギターを弾いた子の家になだれ込んだ。私の実家と最寄りが同じだったのだ。寄生虫の私とは対照的に、あの子はすごく立派に一人暮らしをしていた。他のどの子の家よりも整然としていた。まぎれもなく、一国一城の主だった。小さな城は完成されていて、量販店の棚さえもがきらきらして見えた。

 その晩、あの子はギターの腕を悔んだ。私は自分の虚栄心を恨んだ。同じ部屋にいながら、まったく違うことを反省した。

 私はとても性格が悪かった。いつだって斜に構えて、世を訝しんで、大好きな芸術をも穿っていた。音楽のことを好きと言える資格なんて、とてもじゃないけどなかった。とりわけポップスは、碌に曲も聞かぬまま、知ったかぶりして、弾いた気になっていた。こんなの、冒涜だ。昔バンドを組んでいた友人に面と向かって、嫌い、と言われたのも当然だ。

 でも、そんな私に、あの子は牡蠣をくれた。冷蔵庫からわざわざ取り出した、とっておきの牡蠣。何かでもらって、大切にとっておいた、牡蠣のオイル漬け。

 アパートの近くのセブンイレブンに寄って、一番安い白ワインを買って飲んだ。あの子も料理をするから、舌は確かだろうが、馬鹿の一つ覚えのように、うまいうまいと言って、がぶがぶ飲んだ。私も、うまいうまいと言って、がぶがぶ飲んだ。

 ギターが下手くそでも、自意識に押しつぶされそうでも、うまいものはうまい。

 二人で、一瓶を開け、一晩を語り明かした。

 翌朝のバイトは、てんで仕事にならなかった。


 幾年かを経て、夏。懸命に働いて、満額のボーナスをもらった。ひとり、生牡蠣を貪ると、なんだか空しい気持ちになった。奮発して専門店で買ったちょっと高いワインも、あんまり美味しくない。

 ふと、あの子は今一体何をしているのだろうかと思って、先の高校同期を介して呼び出してもらった。夜中のスーパー銭湯で三人、湯に浸かりながら、当たり障りのない話をした。少し痩せて、色々あったみたいだけど、なんだか元気そうだった。高校同期がサウナへと立って、二人きりになると話題に困ったけれど、牡蠣美味しかったよ、と伝えることができた。

 多分、もうあまり、関わることもないのかもしれない。せいぜい、残りの人生であと二、三回会えればよいほうだろう。

 それでも、あのときのとっておきの牡蠣と、セブンの大雑把な安ワインは忘れない。牡蠣も、ワインも、美味しかったよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?