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#01 隙・自・語

ゆらりゆらりと戯言。時たま嘘八百。二枚舌の百舌鳥。返事を求めず、鷹揚に――

拙稿「鷹の居ぬ間の鴃舌」より



 どうもこんばんは、こるりです。文語調で話すことに定評がある阿呆です。子どもの頃からどうも、わちゃわちゃとした会話が苦手で、これまで幾度となく人見知りを発揮してきました。その反面、一定の礼節を弁えていたため、世の大人たちからの評価はわりに高く、色んな下駄を履かせてもらっておりました。

 しかし、今では私もいい大人です。一体誰がかわいがってくれるのでしょうか。慇懃な返答を続けてきた末路が、慇懃を重ねることから遠ざかるとは何たる皮肉でしょうか。悲しきモンスターです。

 私は、友だちが、少ない。ええ、いくつか友と胸を張って言える存在はおります。それにしても、友だちが、少ない。私は、友人との明朗な談笑や快活な運動から育まれるであろう健やかな人間性を、まるで持ち合わせていないのです。どなたかに失格の烙印を押されてしまえば、一切の反駁なく首肯くことでしょう。はやく人間になりたいものです。

 その代わりと言ってはなんですが、有り余る時間を書物を開くことに充ててきました。その結果生まれたのが、口語に難のある、レトリック弁慶です。おおよそ会話に要らない洒落を好み、修辞を以って多弁を呈します。


 私は広くことばと言うものを愛していて、文芸からインターネットまで、あらゆる波間を揺蕩って生きています。ときには、その文体などを真似て自ら文章を認めてみたりと、迷走は多岐にわたります。

 何かを学ぶ、または「まねぶ」ときに、「守・破・離」という言葉が重宝されますね。これには、私も心からの納得を覚えます。芸道や芸術の世界では、師の動きをとことん真似て型を守り、思案ののちに既存の型を破る。そこから鍛錬を重ね、自分自身と技への理解を深めた者が型から離れ、術の真髄へと辿り着くわけです。器楽の稽古を受けていたことがある私には、このことが身にしみて感じられます。しかしながら、私にはどうにも腑に落ちない三文字があるのです。

 小学校や中学校の体育館の二階に、でかでかと横断幕が掲げられているあの三文字です。そう、「心・技・体」です。こればかりはどうしても理解が及びません。この三文字はどこから湧いて出てきたのでしょうか。肉食獣のような大人が声を荒らげて連呼する姿が、私には怖くてたまりませんでした。まず、そんな健やかな挙動は私には適いません。校庭にキックベースをしに行く者があれば教室で本を読み、教室ではしゃぐ者があれば図書室へ逃げ込んで本を読む。図書室ではしゃぐ者があれば、私は一体どうしていたのでしょう。考えただけでも悪寒が止まりません。


 口先から生まれ、詭弁ばかりを弄し続けてきた私が四半世紀もの時間の浪費を経て身につけたものは「隙・自・語」でございました。ツイッタランドの皆さまにはお馴染み、「隙あらば自分語り」です。

 この世に詭弁護士なる仕事があれば、法科を修める道もあったのでしょうが、そんな都合のよい世界はありません。ふらふらと大学の門戸を叩き、ふらふらと幾つかの学問をつまみ食いしたのちに無駄な学士号を取得し、三度ふらふらとよろめき、今では文学を志すようになりました。学生というよりも、書生のような振る舞いです。

 私が太宰の女性独白体小説を好んで読むのもこの「隙・自・語」が理由でしょう。大変やわらかな文体で、自分語りをするのです。時折、井の中で培った偏見や、勝手気ままな審美眼を開陳させます。

 もちろん、小説というものには幾ばくかの虚構が含まれておりますから、その語りすべてが真実とは限らないのは言うまでもありません。それでも、虚構を交えながらも自己を開示し、その語りを以って私たちの心の深いところに沈みゆくのは、修辞法の力そのものではないでしょうか。


 どうか私の話も鵜呑みにせず、鼻糞を穿りながらでも、聞いてくださいね。次回は、読書歴でも申し上げようと考えています。

 それでは皆さん、おやすみなさい。私は、自ら掘った墓穴から出られなくなった、おちくぼの姫。


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