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自意識と語学

 フランス語をよく勉強したひと月であった。それも体系的に。

 四月からはじめたラジオ講座をお休みし、文法書と検定用のテキストを行ったり来たりするような勉強を続けた。すると、驚くほどすんなり基礎文法が頭に入ってきて、まとまった文章を読めるようになった。学生の頃は同じような手法で勉強を重ねてもちっとも上手く行かなかったのに。

 何が変わったのだろうかと考えてみた。自戒の念を込めて、覚書きを残しておこう。


 思えば、高校から大学にかけて語学に情熱を注ぐ者の大半は、人との出会いを求めていた。大学に入ってからは特にその傾向が顕著で、「国際交流」や「自己研鑽」といったキーワードが飛び交った。新校舎の半地下の階層では、国際交流サークルの輩や留学生と思しき者どもが屯して、何やら中身のなさそうな話を楽しそうに繰り広げていた。当の私は、喧騒に溢れたその場所を居心地悪そうに通り抜けていた。

 空気感がどうしても肌に合わず、彼ら彼女らを心の内で見下しては、どうしようもなく情けなく読み書きの勉強のみに終始していた。図書館の人気のないエリアに籠もり、ラヴェルの弦楽四重奏を聴きながら、動詞の活用を眺めていた(多くの場合、早々に飽きて小説を開いた)。当然音と綴りの関係性に目がいくはずもなく、すべての筆記がおぼろげだった。

 正直なところ、私は「国際交流」なんてしたくないのだ。だって、当たり前のように人見知りしてしまうから。本来の私はきっと空っぽ。誰かとつながったところで話すことなど一つもないもの。何もなくても人と話せるほどすぐれた社交性は持ち合わせていないし、仮に異国の言語感覚を身に着けようともその性質は変わらないだろう。

 だからこそ、話題ありきなのだ。ある話題やそれにまつわる人物について知りたいという思いが募ってはじめて、そこで使われている言葉に関心が向く。つまるところ、学生の頃の私は伝えうる中身もないまま言語の輪郭だけをなぞろうとしていたに過ぎなかったのだ。


 そして最近になってから、私自身これほどまでにフランスのいろいろに心を動かされてきたのかと気付かされた。

 高校のときから慕っている先輩が愛読していたサガン。NHKテキストの教材で大変お世話になっている『ペレアスとメリザンド』。写実とは異なる光の在り方を示した印象派と呼ばれる画家たち。甘美なる世界へと誘う近代フランスの作曲家たち。

 どれもたまらなく好きで、興味をそそられる。

 『シダネルとマルタン展』へ行き、やわらかな光陰に心を奪われた。シダネルは何を語り、何を描いたのだろうか。

 デュトワのオールフランスプログラムを聴いて、音の水流に呑まれた。『ラ・ヴァルス』のスコアに何が書かれていて、彼は何をすくい上げたのだろうか。

 谷崎の『陰翳礼讃』が、フーコーに絶賛されていたことを知った。おまけに、プレイヤッド叢書にはいくつかの小説が収録されているらしい。ジャクリーヌ・ピジョーによる仏訳版の作品たちはフランスでどのように受容されたのだろうか。

 たくさんの疑問が浮かぶ。それらを繙くには、彼ら彼女らの言葉をなぞっていくしかないのだ。


 そうか、私は外国語を勉強してもよいのか。その中で出会う人物たちと対話をしてもよいのか。

 半地下の住人のようにはなれなさそうだが、私も楽しそうに生きてもよいのか(皮肉にも、今取り組んでいるNHKテキストの題目は「自己表現のためのフランス語 Parler de soi en français」だった)。

 自意識の碇が外れ、長いこと停泊していた船はゆっくりと前へと進みだした。やがて穏やかな風が吹き、波に乗ろうとおもむろに帆をおろした。

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