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『茶の本』で人生のもろさを知る


私ではない誰かになりたい…と時々、無性に自分の存在を消したくなるのだが、そんな風に思うのは私だけだろうか。

誰かに憑依したい

先週の、ある日の昼休みのできごとだ。
お昼休みが終わったら、これから大事なプレゼンがある。私という人間はあまりにも頼りなく、もう、失敗しか想像できない。そんな時に私が何をするかというと、私という個性を完全に消す。その代わりに妄想力を働かせ、自分ではない誰かに憑依する。その憑依の対象は、私人が知っている個別具体的な人の場合が多い。でも、本などの架空の世界で出会った場合も多々ある。


『第7章 茶の巨匠』

そういえば、『茶の本』の中に、茶の巨匠たちの章があったな…
昼休み、職場で『茶の本』を開くのが何となく恥ずかしいので、職場の近くの喫茶店へ駆け込んだ。この喫茶店はいわゆる「純喫茶」で、ひとりになりたくなるとき、ときどきこのお店まで足を運ぶ。食事のメニューはお昼には物足りないサンドイッチに1400円もするカレーくらいしかないから、いつでも行けるわけではないのだけど。

その日はお腹がすいていたので、1,400円のカレーのほうを注文し、茶の本を取り出した。岡倉天心の代表作のひとつであるこの『茶の本』は、お茶にまつわる7つのテーマからなり、昔からときどきパラパラめくっては、気になるところを読んだりしていた。だからどの章にどんなことが書いてあるかは、頭の中でだいたい把握しているのだ。茶の巨匠、利休の生きざまの部分を開き、一気に読み返した。

こんなに残酷な話だったっけ?読むタイミングを間違えた

これはネタバレでも何でもない、歴史上の事実だが、侘び寂びのお茶を確立した巨匠・千利休は、上司である豊臣秀吉の嫉妬心に触れ、自らを殺めることになる。心がざわざわしているときに読んでしまったその話は、いつもにまして、人間臭さが妙に印象に残った。

茶道を通してどんなに精神性を高めていっても、「鶴の一声」で職も名誉も、そして自分の命さえも、ほんの一瞬にして失ってしまう。それが「茶の巨匠」とされている人物の人生だ。そしてこの人生のはかなさはきっと、利休の時代に限らず、今だって同じだ。それなら私たちは、何をすれば報われるのだろうか。

いつも目にしているはずの「一期一会」の意味

この本はどうして、一番大事なクライマックスを茶の巨匠の人生で最も暗い側面においてしまったのだろう。「もっと私を励ましておくれ」というおこがましい感情があふれ、作者を責めたい気分になった。
千利休様への憑依失敗だ。

この章にはこんなことが書いてある。

宗教において、「未来」は私たちの後ろにある。
芸術において、「現在」は永遠にある。
茶人たちの考えでは、真の芸術鑑賞は、茶室で行われている高度の風雅によって、日常生活を律しようと努めた。どんな環境にあっても、心の平静を保たねばならぬ。

The book of Tea

「一期一会」だ。
茶道具屋で安く買った、私の部屋に飾っている掛軸のことばでもある。「出会いを大事にしよう」という意味でなんとなくいつも心にかけていることではあるけれど、きっと、「今という瞬間を大事にしよう」という意味も含んでいるのかもしれない。

お茶とはあまり関係のないおちだけど、大事なのは、いざというときに私という個性を消すことなんかではなくて、そのときに「私」が何を考え、何を選択するかという、その過程を大切にすることなんだ。恥ずかしながら当たり前のようなことにはっとしたのであった。

そんな折、良いタイミングで1,400円のカレーがきた。
本を閉じ、よく噛みもせず胃に流し込み、繊細なカップに丁寧に淹れてもらった食後のコーヒーを飲み干した。
「いってらっしゃーい、気を付けて!」この店のマスターの、お会計後のいつものあいさつに笑顔で返し、職場に戻った。

これはほんのひとつのエピソードにすぎないが、『茶の本』は読むときによって解釈が変わるから、本当に面白く、いつも震えている。


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