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会津がなかったら、今のわび茶は存在しなかった

先週末はある茶会に参加すべく、はるばる福島県会津地方の喜多方までいってきました。

今回のお茶会は、この町に京都大徳寺・聚光院の別院の創立1周年を記念したものでした。

JR郡山駅で新幹線から外来線に乗り換え、磐梯熱海を越え、磐梯山のふもとを横断すること1時間。
軽い気持ちで参加してしまいましたが、会津はとっても遠かったです。

旅疲れからか、会津という町は、なんだか昭和か平成初期にタイムスリップしてしまったような、なんとなく哀愁漂う町、という印象を受けました。

正直、どうしてこんなにアクセス不便で冴えない盆地に、あの大徳寺の別院が創立されたのか、とても疑問に思いました。

でも実は、この会津こそ茶道の歴史に欠かせない土地だったのです。

歴史を紐解くと、16世紀の終わり、わび茶の精神を確立させた茶人・千利休が主人の豊臣秀吉から死を命じられます。利休には息子の小庵がいましたが、茶人・蒲生氏郷が小庵をかくまいました。
その茶人は会津藩の領主でもあり、小庵を会津に連れて帰り、小庵はしばらく会津で過ごすことになります。
その後、徳川家康の力添えもあり、小庵は京都に戻って千家を復活させます。
小庵の孫の代には侘び・寂びの茶道が再興し、今の表千家や裏千家、武者小路千家にいたります。

また、会津といば、悲劇の地、戊辰戦争の舞台でもあります。
会津には、小庵が建てた茶室が今でも残っています。戊辰戦争で会津の名城・鶴ヶ城が落ちるとき、地元の名主が茶室をが破壊されるのを惜しんで彼のご自宅まで茶室を移築し、茶室が壊される危機を免れました。
その後、茶室は大切に保管され、鶴ヶ城再建後には城の中に戻ることになります。

――その話を聞いて、いたく感動しました。
「大切なものは目に見えない」ということばを実感したというか、歴史を知ってこんなに感動したのは初めてかもしれません。
茶道というものは本当に、日本の歴史と足並みをそろえた文化なのだと改めて感じました。

お茶会では、お寺のお坊様のほか、地元の茶人の席が設けられました。
今年95歳になられるその方は、茶道を後世へ引き継ぐために尽力されたこと、そしてこれからもお茶が日本人の心に寄り添ったものであってほしいと説いていらっしゃいました。

会津までの交通費はもちろん、茶会に参加するだけでも数万円飛んでいきます。お着物を汚してしまったら、クリーニングに何万円もかかります。
お茶を続ける限り、お金はたまりそうにありません。

でも、お金はなくても頭を使い、お茶を通して利休が掲げた精神性を高めていくことに価値を見出せる人間でありたいと思いました。
(まだまだハードルは高い!)

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