見出し画像

不埒な果実は春を見ない|ep.Satoru


序章・エリの視点はこちらから↓


 バンドメンバーの一人が「俺、もう抜けるわ」と唐突に言い出して、俺らは演奏を止めた。さっきまでは心地良い音の中にいたのに、それを急に遮られたことに少し不快感を覚えて、俺は顔を歪めずにはいられなかった。

『え、今なんて?』

「だから、抜けるんだよ、バンドを」

この宣言に、俺は正直なんて返していいのか分からなかった。こういうところで茶化そうとしてしまうのは俺の悪い癖で、当然その癖はこの期に及んでも発動した。

『えっ……!? なんだお前、どうせあれだろー! 自販機行くために、スタジオから一旦外出することをわざと大袈裟に言ってんだろ。マジで心臓に悪いから。それに、趣味悪いし。普通に。いつもみたいにクソ不味い変なメーカーのメロン牛乳買ってきて顔顰めるんだろ? なぁ、そうだよな? そうなんだよな? 今、自分が変なジョーク飛ばした罪悪感で黙り込んでんだよな? ……なんとか言えよ』

その場を茶化そうとする以上、自分だけは自分の言葉を信じていなければならないのに、言葉を紡ぎながら徐々に、別れを自覚していくのがわかった。抜けるといったそいつは、気まずそうにベースを弄っている。

「いや俺さ、もう一人で食っていけっから。あの面白くもない飛ばし記事書いてた頃にはこのバンドがいいストレス発散になってたけどさ、今はもう、このバンドがストレスになってるんだよ。俺は別の目標が出来たから、もう音楽はいらない。それに、お前ら、俺が歌詞書いてること一度でも公言してくれたことあるか? 無いよな。結局、俺はボーカルのお飾りに過ぎないんだ。だから、やめる。利害関係はとっくに崩れてんだ。それにお前ら、ベースが俺じゃなきゃいけない理由、1つでも言えるか?」

沈黙が落ちた。他のバンドは楽しそうに騒いでいるのに、この部屋だけは喧しいほど静かだ。質問に答えようとするが、特に何も思い当たるものがない。居るのが普通だと思っていた、ただそれだけ。指先が冷たくなって、ピックを落とした。意味もないのに、ありったけの笑顔を浮かべた。既にもう、自分の力ではどうにもならないところまで来てしまったのだなと思って、急に気が楽になったのかもしれない。俺以外のバンドメンバー全員に、波紋のような動揺が広がった。

『じゃあ最後にさ、飲みでも行こうぜ。今まで貯めに貯めてきたお疲れ様会?ってか打ち上げ? 今日全部やろうや』

口をついて出た言葉は自分でも意外で、その後心ここに在らずの状態で会計をしたから、スタジオの店員が俺らに学割を適用してくれなかった際にはいつも一番に気が付いたのに、この時ばかりは気付けなかった。後になって残留したバンドメンバーにこの時の俺の様子を聞いてみると、線路に飛び込みそうな顔だった、と彼らは語る。流石にそれは盛っているだろう、と思うのだけれど、あながち否定はできない。会計で間違って示された、学割料金の3倍ぐらいにのぼる料金を、俺は違和感一つ抱かずに払った。俺が死んだら、この財布の中の金は俺のものではなくなるから、それを考えれば、何も怖いものなど無かったのかもしれない。

 この後、俺らはその足で近くにあるトリキに這入った。酒を浴びるように飲みながら、バンドの歩みを振り返った。アルコールを入れているからか、本音の部分で語り合うことができて、俺はこんな時間が好きだったんだよなと、失われた日々のことを想い出して切なくなった。

この孤独を埋めるためには、死ぬこと以外もはや女を抱くことしか思いつかない。俺はどうやら馬鹿みたいだと頭の半分では自嘲しながら、切実に女を抱けることを祈った。反射的にマッチングアプリを開いたら、新たな女とマッチングした表示が出てくる。あぁ……、あのカップ数が魅力的だった女か——。

もはや酔いが回った頭では、返信すらもまともに考えられず、全てがもれなく面倒になった。ひとまずアプリを閉じた俺は、「そろそろお開きにするか〜」と仲間たちに声を掛けた。

『最初の頃は、こうやってセンベロで浴びるほど飲んで、高架下とかで寝たよな〜』

寝言かと思ったが、違った。明日には俺らと決別して別の道を歩み始めるソイツは、しっかりと目を見開いて、しかし虚空を見つめながら言った。

『楽しかったんだ、俺。友情も、愛も、難しく考えちゃうクチだけど、お前らといる時だけは、自然体でいられたから。アホみたいに酒飲んで、夜通しスタジオで騒いだりしてさ。あの頃は売れてなかったけど、それでも楽しかった。こんなロクでもない俺にも居場所があるんだって、気付けたんだ。ほんと、今日までありがとよ』

ゾンビグラスが素直じゃない俺の代わりに、涙を流していた。俺は鼻で笑って、「まぁ俺は過去なんて振り返らねぇけどな。泳ぎ続けねぇと、音楽業界なんてすぐ溺れっから。それに、なんだよその青臭ぇ言葉は」と言った。最後の最後まで、ありがとう、とただその一言も言えなかった。罪悪感からか、駅までソイツを見送った。ずっと大人びた笑みを向けてくるのが、「お前は音楽を鳴らすことしか能のないガキだ」と言われてるみたいで凄く嫌だった。

こうして、俺のバンドは3人体制になった。しかし、3人ではすぐにライブに出ることはできないだろう。サポートメンバーを入れるにしても、TAB譜を覚えてもらうのに時間を要する。それに、彼みたいな魂のこもった演奏ができるとは限らない。あと、極めつけは俺らの中に新曲を書ける者が一人としていないこと。これが問題なのだ。

 その後、自棄になった俺らは、適当に風俗やキャバクラの類を探した。赤坂の通りをふらりと歩いていると、豪華絢爛な装飾を凝らした箱ヘルとキャバクラを良いとこどりしたような店を見つけた。俺らは吸い寄せられるように、中に入っていった。風俗の右も左も知らない俺は、受付に現れたのが可愛い女の子などではなくて、厳つい体格の男だったことに心の底から驚いた。だけど動揺を見せたら漬け入られると思って、無理に息を吸い込んだらむせた。視界の隅に、一筋の光がちらつく。俺はその光をすぐに視認してしまうのが怖くて、目を細めながら受付の男を睨みつけた。だけど、それもすぐに我慢ができなくなった。

光の方に目を向けたら、そこには可憐な姿で佇む花があった。漆黒のワンピースに入った切れ長のスリットと、そこから覗く真白の生脚。俺の目は、その人に奪われていた。そして、なんといっても蠱惑的なのが、ゴム毬のように弾むおっぱいである。身体も、欲望も、この時ばかりは正直だった。

「あの人でお願いします」

バンドメンバーは「やめとけよ」などと言って笑いながら、俺を小突いてきた。今思えば、この夜の俺はどうかしてたと思う。呪いたいくらい迂闊だったこの選択が、一夜限りの快楽と引き換えに、地獄みたいな日々の幕開けになるなんて。当時の俺には、想像もできなかった。

エリ、と彼女は名乗った。L字型のソファに腰を下ろしながら、胸の渓谷を覗き込んだ。昔付き合った女が嫌なことがあると必ず猫を吸うと言っていたが、ならば俺も嫌なことがあれば必ずおっぱいを吸いたいと思った。それも、理性を放り出して、窒息するくらいに。

その愛おしい乳房を煮るなり焼くなり好きにできるならどんな快楽を求めようか、なんて考えながら下半身を硬くしていると、臓器のように生々しい色のグロスが塗られた彼女の唇が、少しだけ持ち上がった。

『今日はどうして来てくれたの?』

彼女のマニュアル通りなのであろう、その言葉に適切な返答が浮かばない。何もかも面倒くさくなって、セックスくらいでしか生きてる実感を得られないから。そう答えたいところだが、その原因はもっと重い。今夜ヤれなかったら、俺はもう死神に魂を売ってしまうかもしれない。俺の生き様を金にして、この先バンドメンバーの二人がまだ音楽を続けていくための足しに出来るなら、俺は別に死んだって構わないのだ。だけど、それを言うにはまだ若かった。仮に死神が存在するとしても、俺の生き様査定額はタカが知れている。目の前の女には、ひとまずトークの餌でも撒いてやることにする。

「ふへへっ……、解散の危機なんだ」

 喪失感に飲み込まれないように、無理をして笑った。目が眩むようなシャンデリアも仔細に見つめてみると、光を失った電球をいくつか見つけることができた。まるで、後悔を押し隠している自分のようである。流れないように泪を溜める瞳を、俺は軽く洋服の袖で拭う。

『え〜、大変!』

わざとらしい同情の声を出した後に、彼女自身が最も驚いたように口に手を当てた。俺はそんな浅はかで滑稽な女の顔を見て、この日初めて本心で笑うことができた。何か良いことがあった後に来ていると思い込んでいたのだろう。

『いや、待って……。それはどうしてなの?』

「バンドメンバーが脱退したんだ」

『結構大事なパートだったの?』

「大事も何も……、一大事だ。ふへへへっ」

 この辺りから後頭部が鈍器で殴られたように痛み出して、記憶があまり無い。顔をクシャクシャにして笑うエリという女に、どこまでも惹かれる感覚が、確かにあった。気が付いた時にはプレイルームの風呂場にいて、モコモコの泡をつけたエリという女に身体中洗われていた。性欲が勝利したのだな、と全裸でいる自分を俯瞰してちょっと笑ってみる。だけど、それすらも無意味なくらいに気分が昂揚して、安っぽい桃色の燈に照らされた女体を欲望のまま舐め回した。俺はその時、彼女の腕に直線の傷が何本も等間隔に入っているのを見た。咄嗟に目を逸らしはしたけれど、リアルで見たリスカ痕はあまりにも衝撃的で、今も何度か夢に出てくる。

気を取り直して俺は、エリにフェラをするように命じた。エリのそれは凄く気持ちよかった。今までに片手で数えられるくらいの何人かの女とは寝てきたけれど、前戯だけでイッちゃったことは一度として無かった。だから他の女とは別次元のテクニックが繰り出され、俺は混乱しながらも、数十秒でめちゃくちゃ情けない声を出して、射精した。

だけど、まさかこの後本番まで出来るとは夢にも見なかった。どちらからともなくベッドに移動すると、激しく互いをまさぐり合い、そして俺は素早くゴムをつけたペニスを乱雑に挿入した。彼女の中は無抵抗に広がって、快感を与える反発があまり無かった。トー横で拾って割り切りの関係を持った、あの釣り目の女子高生の方が何倍も締まりが良くて気持ちよかった。だけど、それでもリズミカルにピストン運動を続けていると、なんかもう疲れてしまったのか、下半身が激しく痙攣して、この日2度目の射精をすることができた。その後、汗をびっしょりかきながら「まだ足りないなぁ」と意味不明なことを抜かしたエリは、俺のイチモツを壊れた掃除機みたいに吸い込んで綺麗にした後、勝手に騎乗位の体勢になって激しく上下に動いた。

プレイの最中に外界から激しく部屋のドアが叩かれたが、彼女は煩わしそうに一回舌打ちした後、フラフープを回すみたいに腰をくねらした。俺はその変な刺激によって一気にオーガズムに達し、射精した。でも、もう既に気持ちいいと感じる段階は越していて、感覚としては絶叫マシンの途中で予想だにしなかったカーブがかかり、その刺激で失禁したみたいな感じだ。ただ、限りなく水に近い何かが尿道を通して絞り取られ、身体が軽くなったような気がした。これが、もしかすると〝快楽〟と呼ぶのかもしれなかった。しかし、彼女は更に変なことを言い出した。

『今日って危険日だったから、生中なんてシてほしくなかったんだよね。だから、これで私が妊娠したら、ちゃんと付き合ってくれるって認識で合ってたんだよね?』

俺は慄然とした。全身が粟立って、思わずタオルケットに包まる。プレイルームに窓は無いけれど、机上の時計を見たら、そろそろ朝陽が昇るくらいの時間である。俺は考えた。これは、店のそういう策略だったのか? このエリという女の巧妙な罠に俺はハメられたというのか? ただまぁ、ハメたのはお互い様というところだろうか。彼女がバスルームで髪を乾かしている時間に、店側に禁止されている隠し撮りのカメラをティッシュケースの裏に隠して、ずっと録画をしていたのだから。値段以上のオカズを得た俺は、数十分彼女と口論したものの、なんかもうどうでもよくなって連絡先と最近別れた女から回収した自宅アパートの合鍵を、彼女に手渡した。話が丸く収まって、料金は1時間分でいいということだったから、現金で支払った。

 それから彼女が頻繁に家を訪ねてくるようになった。気に入っていた香りの柔軟剤を勝手に買い替えていたり、どんな経路で入手したかも分からない健康食品を無断で家に置いていったり、夜勤のコンビニバイトから帰ってきてすぐに寝たい俺の気持ちを知ってか知らないでか、ベッドで勝手に眠ったりもしていた。俺は次第に家に帰るのが怖くなって、漫喫を利用したり、ビジネスホテルを利用したりするようになった。だけど、家で彼女とヤる分には金は掛からなかったので、性欲に負けた夜だけは家に帰って彼女を抱いたりした。

コートを冬物に変えなければならないくらい気温が冷え込んできた頃に、知り合いのラッパーが捕まった。大麻を大学生に売り捌いていたらしい。音楽とそれを歌っているアーティストの性格は全くの無関係だ、と大したキャリアもない音楽評論家が前にどこかで言っていたのを思い出した。だけど、生きることの希望をラップに乗せていた彼が、率先して若者の未来を奪っていたと思うと、裏切られたような気持ちになって無性に腹が立った。

彼女の身勝手な行動とこの事件がトリガーになって、俺は実像のない社会を憎むようになった。脱退したバンドメンバーが順調そうなのも癪だったし、自分の全く理解できない映画を世間が称賛しているのも気持ち悪くて無理だった。煙草を両手で2本同時に吸いながら歩くだっせぇ不良が大学までの道で律儀に信号を守っていると、思いきり尻を蹴り上げたくなった。バンドにサポートメンバーを招き入れる案は日の目を見ることは無く、やる気のない奴が何人か立候補してきて、口汚く罵ったら殴り合いの喧嘩になった。手近にあったシールドで後ろから思い切り首を絞めたら、殺してしまったので解体して近くのゴミ山に埋めた。

俺はもう電話が掛かってくるのもLINEが来るのも怖くなって、スマホをいつからか持ち歩かなくなった。ビートたけしが原作を書いた『アナログ』という映画をレイトショーで見て、少し影響を受けたのかもしれなかった。携帯を持たない人生も悪くないな、と俺は考えた。影響を受けやすい部分は、人に指摘されるまで気付かない言わば口の横の米粒みたいなもので、だけど口の横に米粒がついていたくらいで人のことを笑うような奴は米粒の立場に立って物事を考えられていないので、実際は米粒をつけているやつよりも笑いながらそれを指摘してくる奴の方がねちっこい。って、何の話だよ。

 勤務先のコンビニが経営不振で潰れるらしい。従業員は俺以外ほぼクルド人だったし、更に情けないのが深夜勤5時間のシフトで客がほぼゼロなせいで、タバコ休憩に7回ほど行く奴もいたこと。だから正直時間の問題だろう、とは思っていた。ホットスナックの廃棄を「若いんだしもっと太った方がいいから」と俺に沢山押し付けた後に不倫を持ち掛けてきた団地妻でさえ、駅を挟んで反対側のピザ屋から新たに採用を貰っていた。俺はスリルが欲しかったから不倫も悪くないな、などと煙草をふかしながら思ったが、今でさえバンドと色恋に忙しいのに、これ以上はキャパオーバーだと思い直し、丁重にお断りした。閉店に向けて商品が段ボールに詰められて陳列棚がスカスカになっていくのは、自らを〝敗北者〟と名乗って本名を明かさなかったブス女が俺の家を出ていく時の風景に似ていた。俺は廃棄になる焼酎や鬼ごろしやレモンサワーの素を沢山もらって、久々に部屋に帰った。

エリという女はまだ、そこにいた。
頭が悪いのか、ずっと俺の部屋にいた。俺が別の女を連れて家に帰って、そこに遭遇するのが嫌なのかもしれない。それを未然に防ぐ策なのかもしれない。だが、安心しろ。俺は公園の便所で本番を済ませてしまうほど場所には無頓着だし、スマホはもう持ち歩いていないから位置情報でバレる心配もない。だが、何をしているか分からない虫けらの宿代を払うほどの余裕は無く、出来ることなら早く追い出したかった。だけど、この女はぶっ飛んでいる。

『随分遅かったね』
エリが言った。遅かったねとは、何だ?

 お前の衣食住を誰が与えているのか分かっているのか? 身体中に痣が出来ても俺に依存する意味を聞かせてくれ。暴力を振るわれようがそれを全てモルモットのように受けとめ、俺の布団に、住処に、虫のように寄生する訳を。

カルーアコーヒーの瓶が目に留まり、一度正面から向き合ってみようと思って偽りの優しさを向けた〝あの夜〟を思い出した。

***

 俺は家の近くの公園に彼女を呼び出した後、捨てられた金属バットを手に素振りの練習をしていた。もうなんか見るに堪えないくらいボロボロだから、殺してやろうと思ったのだ。だけど、言葉にはできない嫌な予感がした。名前も知らない気持ち悪い見た目の虫を叩き潰して殺した時、毒のある体液が指についてかぶれる、みたいなそんな感じの予感だった。それにバットは、劣化していてそちらの方が先に折れそうだった。だから俺は彼女に酒を飲ませて、ひとまず緊張を解いてやろうと考えた。バットを夜闇に投げ捨てて、公園近くのコンビニで適当に缶チューハイとつまみを掴んでレジに持っていった。それから数分後にエリが来て、一緒に酒を飲んだ。甘やかして油断させてやろうと思って、吐き気がするくらい甘いセリフをいくつも吐いた。彼女は、近所の認知症のおばさんが漕いでるブランコの音を気味悪がった。〝タコのお化け〟とかいう意味のわからない存在に怯え出したので、あまりに馬鹿らしくて一人で帰ろうかと思った。だけど、ここでそうしてしまったら全てが水の泡になるから、なんとか耐えて家まで連れ込むことにする。この日実は、彼女と会う前に別の女とセックスしていた。マッチングアプリで作ったセフレで、多分5回戦くらいまでヤったはずだ。もう精巣はとっくに空っぽになっていて、ヤレるとしても1回が限度、というところだった。

だけど一応パフォーマンスとして彼女を抱いて、身体をまさぐりながら合鍵を探した。奪い取れたら即座に台所の包丁を使って殺す想定もしていた。

「喉が渇いたから水を飲む。それと一緒」

——そう、邪魔になったから殺す。だけど、そのつもりだったのに彼女は合鍵どころか何一つ携帯品が無かった。

『何か探しているの?』

彼女に不思議そうに問い掛けられ、「ほら、あれだよ、前にさ、ピンクローターをアナルに突っ込んで前から挿れるプレイやったじゃん。あれ、またやりたいなって思ったんだけど、流石に今日持ってないか」と笑った。

明らかに怪しい、と自分でも思った。隙につけいるどころか、むしろ俺が隙を見せてしまった——。為す術を無くした俺は、わざと残念そうな顔を浮かべた後に、口を塞ぎながら襲った。徹底して夜職を見下そうと思ったけど、そもそもの出会いがそれきっかけだったから上手くいかなかった。その後フェラでイかされた俺は、もう疲れ果ててしまって、この日は寝た。明け方、計画の失敗が悔やまれて、枕を濡らした。多分、この女は起きていた。

 翌日、ライブが無くなってフリーだった俺は、彼女を品川の水族館に連れて行ってやることにした。思えばデートらしきデートには今まで一度も行ったことがなくて、あえてそれをする事で何か伝えたいことがあるのだろうと覚悟させるつもりだった。彼女と前に行った未明町のラブホは、プロジェクションマッピングのある部屋だった。その部屋の映像演出では、空中、というか天井に海月が泳いでいた。それを見ながら、彼女はしんみり言ったのだった。

『私、クラゲ凄い好きなんだよね。死んだら跡形もなく水になっちゃうところが』

妙なことを言う女だと思った。
だけど、今ならその言葉の意味が分かる。彼女は俺に、〝殺してほしい〟と訴えかけていた。現実逃避ばかり覚えて、ディズニーリゾートか男の騎乗位でしか世界に微笑みかけてもらえない人生を憂いているのだ。死んで生まれ変わりたいと祈っているのだ。ならば、俺が殺してあげよう。心に誓った。

山手線の中で俺は、素直に告げた。

「今日で最後にしようと思ってる」

『え?』

エリは不思議そうに首を傾げて、やけにデカい目で俺のことを見つめてきた。

「もう疲れたんだよ、エリ。お前と寝ても、性病移ってないか心配で眠れないんだよ。それに、どうせ1回で力尽きるなんてゴミみてぇな男だな、とか思ってんだろ。そういうの、案外分かるんだよ。だからさ、もう俺ら終わりにしよう」

彼女は泣きそうな顔になった。
だけど、ここは強く言ってやらなきゃいけない。ズルズル関係を長引かせても、お互いの人生にも、精神衛生にも良くない。

『嫌だよ、慧流くんのために私何でもするから、許してよ』

「ほんとに、何でもするのか?」

そう言って、咄嗟に口を噤んだ。
——俺はこんなボロボロの女に何を求める?

『何でもするよ』

俺は朝の決意が嘘だったみたいに、
尋ねていた。

「新曲の歌詞書いたりしてくれるか?」

エリが頷いた。交渉が成立してしまった。
俺と彼女は今までと変わらず関係を継続することになったし、この後どんなデートをしたかなんて、数日もすれば記憶は真っ白になっていた。

それから数日経ったある日、大学生に大麻を売り捌いていた知り合いのラッパーに実刑判決が下った。俺は良い機会だと思い、彼に専属で歌のある曲の作曲を手伝っていたコンポーザーに連絡を入れた。

<良かったら、俺らのバンドに加入しませんか?>

下北沢のジャズ喫茶で彼と会い、バンドサウンドにおいてのベースの大切さ、そしてインディーズシーンでもっと売れていくために彼の作るような曲が我々のバンドにも必要であることを3時間ほどにわたって説いた。

ウインナーコーヒーと自家製レモネード、カフェモカの3杯を奢りながら、時に泣いて熱弁したら、彼は〝電脳猿轡〟で作曲・ベースをやってくれることになった。「もう一度、青春を1から味わってみたいと思った」と、そんな趣旨のことを言った。

後日、エリに書かせた歌詞を、ベーシスト兼コンポーザーの彼の元に持っていくと、瞬く間に新曲が出来た。「反吐息(へどいき)」と名前をつけてTikTokで発信したら、これまたすぐに伸びた。それをたまたま見てくれたSudarenというバンドのボーカルが対バンに誘ってくれて、俺らは本格的に再始動することになった。みんなで忘年会を兼ねて、お祝いをした。

だけど、エリは3曲くらい書いてスランプになった。もう書けない、力になれなくてごめんなさい、と昼夜問わず泣く彼女が家にいることに腹が立った。罪滅ぼしのつもりなのか、朝起きると頼んでもいないのにサンドウィッチを作っている。俺は久々に怒りが沸点に達した。予備で買ってあったステンレス製の物干し竿を手に取り、猿轡を噛ませて何度も何度も彼女のことを殴った。だけど、彼女の骨が何本か折れる音を聞いて、急に怖くなってしまって、優しくした。

……というのは、後付けの設定。俺はこの時期からエリ以外の女と身体の関係を持つようになっていた。定期的にバンドでワンマンライブを開催するハコの、ヨシカワというスタッフだ。金髪ボブで、エリとは違い、肌がモチモチとしていて若々しい。胸はそこまで大きくないが、無邪気な雰囲気が、デリへルで派遣されてくるようなきな臭い制服の女とは異なり、極めて純粋で、天然なものだった。俺はどこまでも自分が作り物に思えていて、しかし、メイクや演技で自己を演出して金を稼ぐ女が嫌いで仕方なかった。だから、エリの纏うマイナスイオンのような雰囲気は、嫉妬の対象であったと同時に、依存の対象でもあったのだ。俺はエリと身体を重ねる時も、彼女の若々しい身体の記憶を脳裏でなぞった。事実として、エリの大きい乳輪は多くの男を魅了した。しかし、それを見て俺は最近になると〝虚飾だ〟と思うようになった。ヨシカワとの馴れ初めは、お互いサウナが好きだと判明したことだった。それから一緒に何度かラブホのサウナがついた部屋に二人で宿泊するようになり、お互い忙しくなってくるとサウナを抜きにして、どちらかの家でセックスをする関係になった。だが一度、とても危険な日があった。その日は午後1時、彼女が俺のアパートに来ることになっていた。しかし、その前夜、俺は記憶を失うほど酒を飲んでエリを家に連れ込んでいた。その上、俺は寝坊をした。目が覚めると昼前で、エリが勝手にサンドウィッチを作っていた。俺は朝に早起きできなかったことに少し腹が立ったのと、最近読んだ「洗脳的恋愛心理術」の本を試してみたいと思って、彼女に暴力を振るい出した。一度殴ってみたら夢中になって、測ってはいないが体感では1時間強彼女を殴り続けていた。女に涙を流しながら謝られる高揚感に身を浸しながらも、前衛芸術みたいな身体に見飽きて、視線を移したら、たまたま時計が目に止まった。俺はヨシカワとの約束があったのを、その瞬間まで忘れていた。あと15分ぐらいだ、と冷静に考える。そこからは狂人のような演技をして、無理やり彼女を帰した。後からヨシカワに聞くと、エリとすれ違ったと言うが、特に訝しむ様子はなかったと言う。俺は心の底から安堵して、「あいつはビジネスパートナーだから、バレても問題ない。俺が本気なのは、お前だけだよ」と言って、カーテンを閉めると彼女のことを抱き寄せた。彼女は幸せそうに笑い、唇を突き出しながら目を瞑る。俺は聖なる夜も彼女と過ごした。

そして、Sudarenとの対バンが、いよいよ目前に迫ってきた。年末のガキ使は全く笑えず、苛立った。煩悩を消したいと思い、エリを除夜の鐘の鳴る限り殴った。彼女は、目にキラキラの雫を溜めながら、唇を力強く噛んでいた。キモい、と心の底から思う。


とうとう対バンの当日を迎えた。
ライブハウスに着いたのは3時間前くらいで、バンドメンバーの3人は、新体制での演奏に浮き足立っている様子だった。しかし、楽屋挨拶ではどういうつもりか、Sudarenの奴らが俺らの変容した音楽性について苦言を呈してきて、少し揉めた。ゲネプロでは真実がバレることが気掛かりだったのか、ドラムの奴がスティックを飛ばし、俺は「てめぇやる気あんのかコラ」と言い、詰めた。それを聞いたベースが「まぁまぁ、お前だって週刊誌にゴシップ載せられてこのバンドに迷惑かけてんだから」と言ってきた。彼が場を収めようとしたのを頭の半分では理解していた。窘めようとしていたことを。だけど俺は、無性に腹が立った。

「お前そんなことライブ前に言う必要あるか? マジで気分悪いんだけど」

「いや別に、そんなつもりじゃ」

俺はわざと聞こえるように舌打ちして、「世間なんてのはこの世に存在しないんだよ」とぼやいたが、正直なところ自分でもおかしいことを言っていると思った。

ライブが始まった。Sudarenはアジアンテイストな曲調が人気のバンドだ。だけど、ボーカルのやってるコールアンドレスポンスがマジでうるさくて、舞台袖で俺は終始爆笑していた。当然、大ヒット曲の『セミシグレ』は最後に歌ったが、その曲の何がいいのか全然分からなかった。懐メロの模倣でしかなくてマジでださい、と裏アカに書き込んだ。

続いて、俺らの番が来た。俺らは最近まで社会風刺的なロックナンバーが多かったが、エリに作詞をさせるようになってからは、女性ファンが急増した。みんな恋愛が上手くいってなさそうだ。だけど、それ以上に俺の方が恋愛はうまくいってないのかもしれない。

一曲目を早速ぶちかます。今日は喉の調子が良いな、と思わずにやけてしまうくらい、調子が良かった。だが、調子に乗ってシャウトしまくったのはミスで、三曲目ぐらいで声が掠れ始めた。まぁ、それはそれで味だと俺は思っているのだけど。

ライブも終盤になると、俺らのライブでは恒例になった歌詞が大きく映し出される演出や、レーザー、スポットライトなどが多用された。『反吐息』間奏のベースがソロプレイを見せる場面では歓声が上がり、今日イチの盛り上がりを見せた。しかし、そこに思いもよらない闖入者が現れた。ステージへと向かってくる女。一瞬見間違いかと思ったが、こんなにハッキリと見覚えのある顔が飛び込んでくる見間違いなど、この世には存在しない。エリだった。紛れもなく、彼女だった。咄嗟に取り押さえた警備員に何かを突きつけたが、よく見るとそれは俺の電気シェーバーである。彼女は何をしようとしたのだろう? 俺らは音を出すのも忘れて呆然と一点を見つめてしまい、観客席はざわめきで満ちた。こうなってしまっては、あの会場のボルテージを取り戻すことなど到底不可能で、パラパラと観客たちが後方のドアから出ていくのを見送る以外なかった。ライブは彼女によって、破壊されたのだ。ただ純粋に俺とその連れが奏でる音楽を楽しみにしてきた人は、その熱をあっけなく失って、愚痴をこぼすだろう。全てが遠のいていく音がして、気づけば俺は楽屋のソファに寝かせられていた。

「大丈夫か?」

バンドメンバーの声が聞こえて、俺は目を覚ます。見上げると、ギターの奴が心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。大丈夫か、と今度は俺が起きたことに呆れたような声で再度問い掛けてくる。

「ああまぁ、それより、何が起きた」

俺が問いを投げると、ベースの奴が溜め息混じりに答えてくれる。

「変な女がライブハウスに飛び込んできた時、お前はギターを弾くのを一瞬辞めたろ? 呆気にとられて。その時、お前はギターの弦をぎゅっと握りながら、ステージの下で揉み合いになってる彼女と警備員の様子を窺って、目いっぱいマイクに顔を近づけた。瞬間、お前は雷に打たれたみたいに身体をクネクネ痙攣させて、思い切り後ろに倒れたんだ。多分だけど、感電したんだ、お前は」

感電、という言葉に衝撃を受けてしまい、口を手で覆う。俺は死ぬところだったのか——?
キチガイなあの女について、メンバーが質問してくることが無かったのが、せめてもの救いだった。しかし。彼女は一体、ステージに向かってきて何をするつもりだったのだろう?

俺はそこまで考えて、ふと、思い出した。あれは、エリとすることが終わった後、ピロートークでの何気ない会話だった。エリは枕元にあった目覚まし時計に手を伸ばして、「これを魔法道具に変えれるとしたら何にしたい?」と聞いてきた。俺は話の意図が掴めなくて、首を傾げる。「どういうこと?」という俺の言葉に彼女の顔は曇って、そうだよね、私の言ってること変だよね、と言って背を向けて寝てしまった。鈍感な俺は、何か間違ったこと言ったかな、なんて考えたりしたが、分からなかった上に眠くなって目を瞑った。思えば、あの頃からエリは不思議な一面を見せていた。それが拾われないまま積もり積もって、あのライブのボルテージ最高の瞬間に爆発したのかもしれない。今考えたって遅いのに、考えずにはいられなかった。もちろん、変な女呼ばわりされたエリのことを「それ、俺の浮気相手なんだよね」なんて言えるはずもなく、新人がミスを誤魔化すみたいに「帰ろう」とだけ言った。

帰り道、俺は今までの行いがどれだけ彼女に対して残酷だったかを思った。そして、ひとり暴走した妄想の世界で孤立する寂しさを推し量ろうとして、急に胸が苦しくなった。分からなかった。ギターのコード進行を考えることはできても、歌詞を書いたことや、楽曲の世界観をゼロから立ち上げた経験が俺には無い。つまり、何かを創り、生み出す人間ではないからその苦痛が分からない。分からないことがどこまでも続いていて、その分からなさを歪めるためにギターを弾いてるんじゃないかって思うことがあるほど、分からないことは分からなかった。自分の歌っている詞が何を伝えたいのか全く想像できなくて、〝この一節にはこんな意味もあるんじゃないかって私は思ったんですけど、それだと三行前の一節と矛盾が生まれてしまうので、むしろ解釈はその逆だと思ったんですけど、だとすると、恋愛だけではなくて政治的なメッセージも隠されているような気がするのですが、そこについてはどういう意図があるんですか?〟なんて長文でファンやライターに質問されてしまうと頭がこんがらがってしまうので、俺は笑いながら「リスナーに解釈は委ねるようにしています。ここで僕が答えを出してしまったら、リスナーのためにもならないというか。それを分かって聴いてくれているものだと、僕は信じています」などと誤魔化してしまう。そんな適当な回答をする度に、脳内で黒板を引っ掻く音のような不快な音が再生された。「何も考えてないのに発言するな」とめちゃくちゃ不機嫌に叱ってきた、中学時代の塾講師の言葉も同時に蘇ってきて、慌てて頭を振る。エリを守ってあげよう。これからは、彼女に優しくしてあげよう。そう考えたそばから、今日はあいつのせいでライブが中止になったんだよな、アンコール用に用意してた大本命の楽曲を演奏できたかったのムカつくな、なんて腹を立てているからどうしようもない。また自分が嫌になる。

家に帰ると、エリがティーカップに湯気の立つ飲み物を入れているところで、その優雅さは侮辱されたプライドを無神経に引っ掻き、俺は顔を歪めずにはいられなくなった。その瞬間、名前がついた一切の感情を通り越して頭が真っ白になり、ただ5文字の決意が浮かんだ。

『殺してやる』

その文字の意味を反芻しながら、彼女の髪の毛を力任せに掴んで、引き摺り回した。そうか……、俺は今からこいつを殺すのか……。それは、東野圭吾が加賀恭一郎シリーズの新作を書いたことを電車の吊り広告で知って「すげぇ」と漏らすくらい他人事だった。読んでみようとは思っても、実際読んでみることはない。そんな本が、家の本棚にはズラリと並んでいた。そして、それと同じくらい「殺してやる」とは思っても、実行に移さなかった女が過去に何人もいた。だけど今、なんの躊躇もなく俺はエリに手をかけている。今ならやれるかもしれない。成し遂げられるかもしれない。今なら。

だけど、俺は殺すまでは出来なかった。エリが『妊娠している』と、突然言い始めたのだ。彼女のやっている仕事を鑑みると、その子宮に宿る生命が、本当に俺の精子によってもたらされたものなのかは分からない。だけど、どう足掻いても俺は人間だったから、同時に2つの命を奪うかもしれない、という事実に躊躇いを覚えてしまった。『ごめんね』と言いながら、俺のズボンのチャックを下ろし、更にトランクスを下ろして露わになった熱を、彼女は咥えようとした。しかし、俺はそれを頼んでいないし、めちゃくちゃ癪に障った。俺は掴んだままの物干し竿を、思い切り彼女の口めがけて押し込んだ。言葉にならない声が漏れて、故障した機械みたいに、彼女の眼球が上下し、仕舞いには白目を剥いた。これはコミュニケーションなのだ、と俺は自分に言い聞かせながら、更に右手に力を込めて、物干し竿を押し込んだ。泥のような色の血が溢れ出し、遠い昔ふたりで買いに行ったカーペットを染めた。もう分かってくれただろうか。やっと穏やかな気持ちになった俺は、優しく彼女の口から竿を抜く。舌がナメクジのようにぬらぬらと蠢いていた。何かを言おうとしているが、聞き取ることができない。あまりに可哀想な彼女を、俺は優しく抱擁した。

久々に静かな夜が訪れたから、俺は散歩に出掛けた。夜中でも開いている個人経営の書店に赴き、便箋と筆ペンを買った。美人ではあるが影のある店主が柔らかく微笑んで、ここももう閉めようと思っているんです、と言った。俺は曖昧に頷いた後、いつもの習慣でPayPayを出して支払いを済ませようとしたが、当然こういった雰囲気が売りの店が対応しているわけもなかった。慌てて財布を取り出し、小銭をトレーに置こうとした手が躍って、床にジャラジャラとばらまいてしまう始末。青い瞳の店主は寂しげな笑みを浮かべて、言った。

『お代はいらないです。でも、その代わり、一度だけ私のことを抱いて行ってください』

店の奥にある扉の先から、信号機の黄色信号の灯りが漏れている。俺はその扉を跨いだら何か変わってしまうような気がして躊躇ったが、目の色が青い店主の女にこうして正面からまじまじと見られると、もう後戻りはできないのだと悟った。それに、店内にある壁掛け時計の針は何故か0時の手前で分針と秒針が止まっていて、俺はガラスの靴やカボチャの馬車を前にしたようなノスタルジーを覚えた。時間があともう少し振れるのを待ってくれるように願いながら、キスをした。そして、扉が開いた。次に描かれるシーンは決まっていて、それに抗いたい気持ちもあるのに、俺は無力で、抵抗することはできなかった。次々に深まっていく俺と彼女の距離に反して、時計の針はいつまでも動かないままだった。ふたりとも同じように黄色や赤色に染まっていて、これは運命だったのかもしれない、なんて考えたが、以前にも似たような感覚を味わったのを思い出した。エリだ。運命という錯覚に、俺は狂わされたのだった。だけど、一段大人になって、自分の幼い部分を見つめられるようになったから、手紙を書こうとしてここへ来たんだった。

「もう帰るよ」と言った。

俺の視界に入るのは、もはや赤でも黄色でもないセメントみたいな色をした女だった。待ってよ、と彼女は俺の腕を掴んだが、何を待てばいいのか分からなかった。あなたのファンなの私、と彼女は言った。俺は笑って首を振り、「ごめんファンには手を出さないってメンバーと約束したんだ」と返した。約束したということは、一回やらかしたということだ。彼女が俺のバンドの好きな曲を挙げても、全く心は動かなかった。セメントで出来た彫像みたいな身体の中で、青い瞳だけがギラギラと動いて気持ち悪かった。これ以上は危ない、と脳内で危険信号が光った。けれど、外の黄色信号は部屋に射さなかった。彼女がセックスをした後、ブラインドを下げて眠ろうとしたからセメントみたいな色になったのだと分かった。眠らない街の中で、俺と一緒に寝ようとしたのが悪いと思った。ただ、そいつが後からストーカーになるのは、この時の俺も予想できなかった。

俺は店を出た。一度とは言ったものの、二度ほど過ちを犯した。帰り道、エリに書く手紙の文面を考えながら、頼りなく明滅する街灯の下で、何度も来た道を戻ろうか迷い、そんな自分に戸惑った。幾つかの街灯をパスして、弱虫を捨てれたかもしれないと思った頃、電信柱の影から汚い野良猫が飛び出してきた。こちらを威嚇して尾っぽを逆立てているが、どうやら何かおかしい。

自分が猫にとって無害であることを、滑稽な踊りで示しながら、徐々に距離を縮める。猫の腹が引き裂かれていて、そこから半身の生き物が飛び出していた。俺は吐いた。死ぬほど吐いた。羽虫が群がって猫の身体に止まるのを、まっさらの楽譜に音符が打たれていくみたいだと、頭のどこかで考えていた。吐くものが無くなった暁には胃液を吐いて、アスファルトは黄色くなっていた。

明日、エリと一緒に病院に行こうと思った。二人で精神科に入って、この寄る辺ない心を蝕む虫を余すことなく排除したら、またあの頃のように水族館にでも行きたいと思った。浮気をしてしまうのも、殺人を犯してしまうのも、自分が自分をクズだと値踏みするだけでいとも簡単に踏み越えてゆけるラインでしかなかった。だから、怒られたら安心したし、生温い血は産湯のように、俺の心を蕩けさせた。なぁ、俺はどう生きればいい。そう問い掛けても答えてくれる人は、一人としていない。満員電車で叫んでも、針のような視線が刺さるだけ。そんな時、俺はいつも終焉を望んで目を閉じた。

今、俺は強く目を瞑っている。見たくないのは、残酷なほど冷たい世界でも、朝に目が覚める頃には布団から消えてしまう女の背中でもなく、ただただ自分自身だった。等身大の自分から逃げたくて、六本木や赤坂で酒を浴びるように飲み、退廃を演じることで自意識から逃れようとしていただけだった。だけど、これがいつものように目を開ければ日常に戻れるパターンではないことにも、頭の片隅で気付いていた。直近の記憶に手を触れると、ハンドルの感触や、ケーキの表面のように綺麗に舗装された道、積み木を等間隔に並べたような、均一で不気味な街の清潔な匂いが眼前に甦った。精神の部屋の中では、俺は自由に叫べるのかもしれない。誰も自分のことを見ていなくて、干渉もしてこなかった。手紙の文面を考える時、言い訳ばかりが浮かんで呼吸がしづらくなる感覚を覚えたが、今は違う。興奮して、息が上がってきているのだ。〝生〟を感じるために、人間が営んできた行為の一つ一つに「阿呆くせぇ」と思うのが、俺の常だった。思ってもない「愛してる」を向けるたび、自分の空洞が広がる気がした。初めて果実にキスをした時、どうして人間は接吻などという奇怪な行為を生み出したのだろう、と考えてしまって、口を開けているうちに女は帰っていた。

生きることの面白さを味わえなくなった俺は、あの雷に打たれたライブハウスの夜、最高に気持ちいいと思った。このままビリビリが身体に留まっていて欲しいと思うのに、それを拒む器官が備わっているのが悔しくて、恨めしかった。楽屋のソファで目を覚ました後、ずっとどうやって死のうか考えていた。やっと終わるのだ——。

走馬灯というものは、一本の映画のように再生されるものではなく、様々な感情や、それに分類することのできない複雑な瞬間が一枚一枚写真のように存在していて、それが耽ることのできる限界を超えると天井から降ってくる仕組みになっていた。それを振り仰いでいると、まるで映像のようにそれらは駆け巡っていくが、俺の場合はただ大量のフィルムが降り注いできただけだった。死体遺棄の写真や、騎乗位になった女のシルエットなど、驚くほど自分を映した写真は無く、美しくもなかった。その一つ一つは、まだ俺の帰りを待っていて、呻き声を上げながら手を伸ばしてくる。うぅぅぅ………、ぐわぁあぁ………。そんな音を聞きながら、次第に俺の身体は圧迫されていく。息が出来ない、助けてくれ——!

虚無には向かって叫ぶも、返ってきたのは自分の声の反響だけだった。

——今、自分はどこにいるのだろうか。
恐らくはスタジオだろう。最近は、自分の気持ちを歌に残したいとおもって、作曲の勉強をしている。女を抱くよりも、アコギを抱いていることが増えた。だけど、スタジオは暗黒に包まれていて、俺はどうしてかスイッチに手を伸ばせない。メトロノームは酷く走っていて、操縦が効かなくなった車のようである。俺はリズムに乗ろうとして、何度も弾き返される。痛い。棘のようなものにぶつかり、身体から悪意が溢れ出す。自分が出している音に混じって、何者かの呻き声が反響している。眩しい。視界は暗いのに、眩しいなと吠える。混乱する。恐ろしい。やめてくれ。俺の身体に触れないでくれ。救いを待ちながら、匙を投げる。メトロノームは止まらない。やがて俺を追い越したテンポは、急速に冷えていった。

「あぁ………」

——うるさい。

「あと少し、だったんだけどなぁ」

——やめろ。

「……まぁ深みにハマったというか、罠だったんだ仕方ない」

「ほら、何も出来ないくせに出しゃばるから(笑)」

俺はここに来てやっと、自分がどういう状況なのか知ることになった。胸に抱いていたアコギは、エリの姿に変貌していた。俺は発狂し、飛び退く。しかし、彼女は離れない。暗くて生温い水深2センチくらいの泥濘を、這いずり回った。やがて見えてきたのは、綺麗な花園である。俺はそこでやっと息をついて、想う。あの花は、どんな水に、どんな土に命を育まれてきたのだろうか。鮮烈な色彩を受け止めきれない屈折した心が、視線を上滑りさせ、焼けるような太陽が惨めな自意識を照らした。もう駄目だ。俺は塞ぎ込むように、地面に蹲ると、その花に栄養を与えた水分や土の正体を知る。

——そうだったのか。

花は、朽ちた自分の身体から咲いていた。俺の殺意や嫉妬、希死念慮、厭世観など全てのネガティヴな感情は、いつしか花を咲かせていたのだった。バンドで飲みに行った帰り道の側溝にぶちまけた吐瀉物も、俺が殴った女の流した涙や血も、その後にしたセックスで枯れるほど出した精子も、エリに浴びせた熱湯も全て、この世の新たな生命の始まりだった。あの日、俺が怒りに任せて壊したものが、新たな生命を芽吹かせていた。どうして、この星はこんなに美しいのだろう。俺は今日の今日まで、自分が全く美しくないと思っていた。だけど、天上天下唯我独尊、俺より美しいものはどこにも無かった。俺の身体はもうすぐ終わりを迎え、新たな物語が始まる。周囲を見渡せば、他にも美しい屍体がある。あれは……、俺の知っている顔だ。あいつは、……ヨシカワは、どうして死んだのだろう。答えはとっくに思いついている。俺を殺そうとしたから。身体に電流が走ったあの夜、彼女は舞台裏で配電盤か何かを弄っていた。きっとあれは、俺を殺すための工作だったのだ。人間は、愛が強くなればなるほど、その対象を壊したくなる。殺したいと思うほど愛おしい人間がいて、そんな相手と愛し合えたこと。その先で待ち受けていたのが、死だったということ。たたそれだけだ。ほらやっぱり、俺たちは美しい。——ああ、生きていて良かった。そう、吐息混じりに呟く。こうして死人の上には桜が咲き、淡くて恐ろしい春が来る。

Episode__Satoru's  end.

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?