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不埒な果実は春を見ない|ep.Eri 1/2

私は彼を深く愛している。彼と一緒ならどんな死にも耐えられる。しかし、一緒でなければ、たとえ生きていても生きていることにはならない。

ジョン・ミルトン『失楽園』

~10月~

 夕飯をコンビニで買っていたら、通り雨が降り出してきた。私はレジ横のビニール傘を買おうとしたが、日当が入っていないので当然買えるわけもなく諦めた。仕方なく、レジ袋を傘の代わりにして、職場まで駆け込むことにする。左右から自転車などの通行が無いか確認して、私は颯爽と走り出す。しかし、くっ……、思ったより雨は強い。綺麗なお洋服が濡れてしまっては仕事に支障が出るので、一先ず雨宿りでもしようと思った。だけど、ここは港区赤坂の通り。気軽に雨止みを待てるような店は無い。私はため息をつきながら、目に入った証明写真機に入った。

証明写真機の中は、思った以上に窮屈だった。

「いらっしゃいませ」と機械的な音声が流れ、視界が途端に眩しくなった。私は片手でカレーパンを口に運びながら、もう片方の手でマッチングアプリを開いた。どうせ大した出会いも無いんだろ、そう思ったのも束の間のこと。

“It"s a match!!”

そんな表示に私は目を見開いた。マッチングアプリを始めたのはつい最近のことで、何人かとは実際に会った。だけど、運命みたいな出会いは一度として無かった。つまらない男と寝て、希死念慮を募らせるだけ。バカみたいな人生だと思った。


 だけど、なんとなく辞められない。次はきっと、という期待を捨てきれない。今回の相手は、なんだかうまくいきそうな気がする。鼻筋が通っていて、とても爽やかな笑顔。プロフィールを詳しく見てみると、趣味は読書、バンドのギターボーカルもやっているらしい。話が合いそうだ。何枚か写真を繰る。綺麗に片付いている上に統一感のある部屋を映した一枚、好きな本の表紙……。手が止まる。ハンドバッグから一冊の文庫本を取り出す。まさか……、同じ本を読んでいる!?

私はマッチした彼に送るメッセージを考えながら、職場までの道を辿った。こうして傘も差さずに歩く道は孤独で、私は浮いているように思えた。隣で傘を差してくれる人がいたなら。冷たくて静かな雨を仰いで、この世の醜い争いも、下劣な犯罪に手を染める人間も、朝食と共に並べられた御託や綺麗事も、全て洗い流してくれるように祈った。けれど直後、力がないことを言い訳に堕落した人生を送る私が一番愚かだと気づく。季節は冬に移ろいゆくのに、私はいつまでも裸になるのが仕事だ。

その日は、3人の来客があった。深夜の3時過ぎくらい、泥酔した様子で来店した。私はよく指名をしてくれる客たちに向けた、「おたより」をパソコンに打ち込んでいるところだった。「おたより」では、客の性愛にまつわる悩みについても私が忖度なしで答えている。しかし、こういう店に足繁く通う客の大半は人生に詰んでることが多いので、彼らが行動に移すかは別問題なのだが。


【マリンバイブ通信~10月号~】仮原稿

 最近、セックスをしながら疑問に思うことがあります。女性がトイレに行く時は、「お花摘みに行ってくる」という上品な表現があるのに、なぜ風俗嬢がお仕事をする時に適切な表現が無いのでしょう。なので私は、昨晩徹夜で必死に考えました。「春を満たしに行ってくる」なんてどうでしょう。同僚に思い切って提案してみたら、「キモいよ」と一蹴されました。どうして。私はこの表現を積極的に使っていこうと思うけど、誰にも伝わらなくて途中で心が折れると思います。もって3日くらいかな(笑)。今夜も安いシャンパンの味は退屈で、待ち受けるのは一方通行の行為ばかり。みなさん、私には、この世の全てが憂鬱です。どうか、私を本気で気持ちよくさせてくれないでしょうか。あなたのご来店、お待ちしております。


——キリのいいところでエンターキーを押して、パソコンを閉じた。私は聞こえやすいように、しかしどこか妖艶に「いらっしゃいませ」と言った。受付で努めて威厳を作る強面の男が、3人の若者たちに身分証を出させて、会員カードを作っている。これは、風営法で18歳未満のガキが入ってくるのを防ぐためである。私は指名される可能性を想定し、バックヤードから彼らの身長や装い、持ち物などを細かくチェックした。それらを踏まえて、彼らの懐がどれほど温かいのか見当をつけられるのだ。これは、唯一私が誇れる特技である。左の男は……、冴えない。直毛ストレートの黒髪、マネキンのコーデをそのまま買ったような、良く言えば賢明、悪く言えば失敗を恐れて冒険しない、つまらないファッション。持ち物は特に無し。右の男は……、ちょっと独特すぎる。スペインカールの髪型に、無精髭。全身黒コーデ。ガラの悪い、美大生みたいな雰囲気。宴会でボケまくるけど、3回に2回くらいは不発に終わるタイプ。異性からは絶対にモテない。持ち物はZARAのショルダーバッグ。真ん中の男は……

「えっ嘘」
私は思わず、声に出してしまう。

それは、さっきマッチングアプリでマッチしていたあのイケメンの男の子だった。バンドのボーカルをやっているという彼。おそらく私と同じ本を同じタイミングで読んでいる彼。今までに、こんな運命みたいな出来事があっただろうか。嬉しくて、一度バックヤードに引っ込んだ。鏡で自分の顔を見ると、頬が紅潮している。秋に迎えられたあの日みたいな色だ。恥ずかしい、でも嬉しい。夢うつつ、といった感じでイマイチ信じられない。

『現実だよ』

ビクッとして、振り向いた。オーナーの男に、肩を叩かれたのだ。私は咄嗟にニヤケ顔を仕舞い、営業スマイルに切り替える。『エリちゃんスタイル良くて、話も上手いからモテそうなもんなのにね。こういう場合ってよっぽど性格悪いか、ヤバい性癖のせいかどっちかなんだよね。エリちゃんは、どっちかな?』と、ヤツは嫌味ったらしく言った。「余計なお世話です」とだけ言い返し、そそくさと店に出た。

彼と目が合う。想像していた展開なのに、少し照れてしまう。

「あの人にしてください」

彼が、受付の男に言う。何度もリピート再生したい、低くてかっこいい声だった。バンドメンバーと思しき取り巻きが、彼を揶揄う。だけど、彼の目は真っ直ぐで揺らがなかった。

「恵梨です。よろしくお願いします」

彼らとL字型のソファに腰掛け、会話をする。お酒を注いであげたり、グラスの汗を拭ったり、気を遣わなきゃいけないことは多いが、卒なくこなせるようにはなってきた。

「今日はどうして来てくれたの?」

この言葉で、戦いの火蓋が切って落とされた。
私はボトルを入れてもらうため、場を盛り上げる必要がある。しかし、彼らの顔は心無しか、暗い。酒が入っているからヤケに笑うが、急に我に返ったように真顔になる。私の狙う彼が口を開いた。

『ふへへっ……、解散の危機なんだ』

「え〜、大変!」なんて明るく反応してしまって、直後に後悔した。ライブが成功したとか、CDが予定枚数完売したとか、そういうものだと思っていた。唐突に、話が重すぎやしないか。動揺が、全身に拡がっていく。

「いや、待って……。それはどうしてなの?」

彼が答える。メンバーが脱退したのだ、と。

「結構大事なパートだったの?」

『大事も何も……、一大事だ。ふへへへっ』

ちょっと待ってくれ……、話にならないぞこれ。私は首を傾げながら、ギターを弾く仕草をして見せる。彼が首を横に振る。それなら……、右手で弦を弾く仕草をする。彼が頷く。そうか、ベースか。バンドでベースが抜けたのは、割と致命傷なのだろう。しかし、

「それならサポートメンバーなり迎え入れればいいんじゃないの?」

『そんな簡単な話じゃないんだよ。ベースは、喩えるなら内臓なんだ。代わりに人工臓器を入れても、魂には響かないんだ。音楽は、生命なんだよ』

独特な奴が言った。その言葉を聞いて、彼らは机に突っ伏して肩を震わせ始める。こうして涙を見せられると、つい母性本能が刺激されてしまう。

「じゃあ今夜だけは、そんなこと忘れて私と遊びましょうよ」

私は、彼の揺れる肩に手を置いた。彼は私の顔をじっと、濡れた瞳で覗き込む。まるで天から降り注ぐ光を見上げるように、儚く目を細めた。

『抱いても良いんですか』

檻の外に放たれてしまったウサギのように、ぐったりと憔悴した顔を見ていると、愛おしさと欲望が湧き出してくるのを感じた。それはまるで、乾き切った大地に雨水が染み渡っていくように。私は手を差し出した。彼が躊躇いがちに握り返す。

「俺らは、ほかのお姉さんともう少し話してから帰るから、楽しんでこいよ」

バンドメンバーたちは言った。全身黒の独特な奴が右手を挙げて、ボーイを呼ぶ。私たちは、アコーディオンのようなカーテンを潜り、店の最奥部へと進む。この赤い絨毯が敷き詰められた階段を上る時、変態紳士は「まるで天国に行くようだ」と表現する。私は彼の手を引いて、幸せへの一歩を踏み出した。


 プレイルームに入ると、まずタイマーをセットする。それが店のルール。何故なら、時間制で金を取るから。だけど、私はそれをしなかった。彼と交われることは、私にとっての幸福でもあるのだ。初めに私が服を脱ぐ。今日は、エロい香りのする香水を纏ってきたから、一段と脱衣がエッチなものに見えるだろう。彼が、食い入るように私の体を見つめる。

「好きなだけ貪っていいよ」

私は彼の唇に、優しくキスをする。甘ったるくて情けない顔になった彼の服を、一枚ずつ丁寧に剥がしてゆく。私も彼も、まったく剥き出しになった。シャワー室に彼の手を引いて入る。私はボディーソープを泡立てて、彼の身体をモコモコで洗う。こうして見ると、陶器のように透き通った肌だ。目に見えないほどの細かい傷が沢山ついた陶器。扱い方を間違えたらすぐにヒビが入ると分かるから、花を生けるように優しい言葉を囁いた。

浴槽に浸かる。私はお湯が出る側に座り、彼はその反対側に座った。私は彼の怒張したペニスに手を伸ばす。彼が敏感に反応する。おっぱいに触れてくる。彼が言った。

『挟んでください』

彼はやがて、私の胸の中で射精した。夕焼けを眺めるように、部屋の人工的な灯りを見上げていた。やや先程よりも積極的になった彼は、ベッドへと誘ってくる。私は頷いて、彼の手に引かれる。

ベッドの上で、彼は獣になった。激しい愛撫と、ベロチュー。最速で前戯を済ませる彼は、すごく手慣れた感じがした。私はすぐに濡らされてしまって、為す術を無くしている。彼は余裕綽々とした感じで長い竿を挿入してくる。何度も何度も突き上げられて、私は息も絶え絶えになった。そういえば家のベランダに洗濯物が干しっ放しだったけれど、さっきの雨で濡れちゃいないだろうか、とか初めは考えていたけれど、途中からそんなものはどうでも良くなった。私はずっとこの部屋で、彼と交わっていたい——。遠のく意識の中で、プレイルームのドアが外側から激しく叩かれるのを聞いた。だけど、それすらどうでもよくて欲望をぶつけ合った。この日から、私と彼は付き合うことになった。

~11月~

「はい、次はエリの番」

夜の公園で、缶チューハイを交互に飲んでいる。
私はすぐに酔いが回ってしまって、まともにカレシの速水慧流と目が合わせられない。数メートル先にはシーズンオフの桜並木が、公園の奥を目隠ししている。

その桜並木の先から、何か音がする。

「ねぇ、何か音しない?」

「うそ。酔ってるだけだよ」

「えぇ、違うよ。うち酔ったりしないもん」

彼の赤い耳に手を触れた。慧流は火照っていた。

「ちゃんと耳、澄ませてみてよ」

慧流は仕方なし、といった感じで黙り込んだ。

沈黙するふたりの間に流れる、ブランコを漕ぐ音。一定のリズムを刻む乗り方は、どこかメトロノームを思わせた。その旋律に身体を揺らしそうになって、私は戦慄する。

現在時刻、2時50分。
時刻は間もなく午前3時を迎えます、とラジオDJが発言するくらいの時間だ。このくらいの時間になると、ラジオの会話も淫靡で不埒なものになり始める。出演者が数年後にゴシップや当て逃げなど不祥事を起こすと、そこでの発言が掘り返され、炎上するというのは通例だ。

しかし、そんな時間にブランコを漕いでいる人間というのはもっと異常だ。歯に衣着せぬ物言いをするならば、こんな時間にブランコを漕いでいる奴は頭がおかしい。ただ、私はそんな考えを追いやって、可愛くて臆病な女の子を演じる。

「ねぇねぇ、こんな時間にブランコ漕いでるのって、お化けなんじゃない?」

「ほんとに流石だねぇ、エリは。ほらこっち来な、確かめに行ってみよう」

「なんでよ~、嫌だ嫌だ。もう帰ろうよ」

「帰るって言ったって、もう終電ないだろ」

「え、今日は君の家に泊まるんでしょ? 私はそう思ってたよ」

「ったくもう」

慧流の腕にしがみ付こうとしたら、彼は一瞬「待って」と言って、数メートル先へ歩いて行った。

慧流は煙草を吸う人だった。
私が煙たいのを嫌いだから、いつも遠くで吸ってくれた。公園の更に奥にある集合団地の隙間から吹く風の音が大きくなっていって、華奢な彼はひょっとすると何処かへ吹き飛ばされてしまうのではないかと怖くなった。

「早くして~! 飛ばされちゃうよ」

私は少しだけ声を張った。

「何が~? もうちょっとで吸い終わるから」

視線の先に捕まえたタコを模した遊具は、妙に生々しい質感だった。

「ダメ! 早くしないと私、タコのお化けに連れてかれちゃうよ」

「ったくもう、しょうがないなぁ。今行く」

家に着くまでの夜道で、慧流は何度も咳をした。私は赤ちゃんを抱き寄せるように彼の背中を擦り、街灯の下キスをした。

ドアを閉めるなり、慧流は獣のように積極的になる。ショルダーバッグを玄関に投げ捨て、猛烈に私を欲していたように、胸の中へ抱き寄せてきた。私は思わず足元からくず折れそうになる。

「喉が渇いたから水を飲む。それと一緒」

彼は独り言のように言って、私を抱いたまま、ベッドのあるリビングまで直線の廊下を進んでいく。半分閉ざされたレースカーテンが月の輪郭をぼやかしていた。

慧流の勢いはもう止まりそうになかった。最初にそれぞれシャワーを浴びる時間すら与えてくれず、だらだら汗をかきながら、震える手で私の服を脱がそうとしてくる。私は素直に万歳をして、上半身はブラを残すだけになった。

慧流は私のブラを訝しむような目で見て、
「その可愛い花柄の、いつ買ったの。どこぞやの汚ねぇじじいに買ってもらったのか?」と静かに問う。愛情の裏返しに、わざと棘のある言葉で私の職業を非難しようとする慧流の顔が、私はあまり好きではない。

彼が二度とそんな顔をしないように、私は不意打ちのキスをした。その唐突さに目を見開いて、彼は黙ってしまう。可愛い彼の耳元、私は囁いた。

『それでいいの』

私がパンツを下げてフェラをしてあげると、ほんの数秒で彼は情けなく痙攣した。

「あぁ、出ちゃった」

屹立した局部を優しく撫でると、湯煎したチョコペンのように熱かった。綺麗にしてあげるよ、と言って私は唇を近づける。

「酔いが覚めてきた」と言って、玄関の真横にある台所でレモンサワーを作り始める彼。私には「カフェオレ」を入れてくれたらしいが、私はそれが「カルーアミルク」というお酒であることを匂いですぐに気づいた。だけど、気が付かないふりをして、ありがとうと受け取る。

 結局その夜、慧流のそれがもう一度勃つことはなかった。本当に情けなくて泣きそうな顔をして先に布団に入ってしまうから、何だか可哀想になった。私も隣に寝転んで目を閉じてみるが、今夜は眠れそうにない。

明け方、彼は背を向けながら静かに泣いていた。


 眩しい朝陽が窓から射し込み、気持ち程度に部屋を暖める。
このアパートの朝は、壁が薄いからか色々な音が聞こえる。ラジオ体操の音や、洗濯機を回す音、小学生の吹く口笛の音など……。私は、冷蔵庫のありもので慧流にサンドウィッチを作ってあげる。部屋に飾られたアコギを見ながら、考える。

(こんなにも壁が薄いのに、音楽など作れるのだろうか……。)

ハムを刻んでいると、彼が起きてきた。私は声を掛ける。

「おはよう」

彼もにこっと笑って、「おはよう」と言った。

「今日はどこに連れて行ってくれるの?」私が尋ねると、「水族館にでも行こうか」と彼が笑った。

朝食を食べて、私たちは電車で品川へ向かった。

 品川駅の雑踏の中、決して離れないように手を繋いだ。目的地へと向かう。今日は季節外れの陽射しで気温が上がり、思わずアウターを脱いで抱えた。マップの位置情報がバグっていて、途中まで逆方向を進んでいたけれど、それすらも笑い合った。

人混みのアクアリウムに、私たちは辿り着いた。並び列が二手に分かれていて、私は向かって左側、当日券の列に並ぼうとした。だけど、彼はそれを引き止めた。

「待って、俺らはこっちだよ」

彼は右列、つまり予約券の列を指した。
私は訳が分からなくて、首を傾げる。

「もう当日券買ってあるから」

キュン、というかギュンってなった。やっぱり彼は慣れている。左列を追い抜いて、入場する。入った途端に、大きな水槽がお出迎え。テンションが上がる。

「写真撮ってあげるよ」

彼はそう言って、スマホを取り出した。私は照れながらも、水槽の方を向いた。流石に正面の写真は恥ずかしいから、後ろ姿を写してもらう。写真を見たら、初恋をしている私は、少女のように可愛い。手を繋いで、魚が生きる世界に吸い寄せられていく。

途中まで進むと、唐突にバイキングが現れた。左右に、振り子のように揺れる舟。子供が嬉しそうに、叫び声をあげている。

「ねぇ、これ乗ろ!」

彼の袖を掴んで、少女みたいに甘えた。彼は苦笑いをしながらも、「いいよ」と応じてくれた。アトラクションの料金に百円玉を追加したら端列に必ず乗れることが分かり、私は躊躇なく百円玉を追加した。そして、ふたりで端列へ。

だけど、不思議なことに舟が動き出すとはしゃいでいるのは私だけで、他の子供たちは控えめに笑うだけ。隣に座る慧流の様子を見ると、恐ろしそうにブルブルと震えているではないか。

「大丈夫!? 具合悪い!?」

私が尋ねると、彼はややきまりが悪そうに笑って、「ごめん俺、実はバイキングめちゃくちゃ苦手なんだ」と言う。それならそうと、早く言ってくれれば良かったのになと思った。構わず、私はまたはしゃいだ。

それからは特にハプニングも無く、イルカショーを観たり、ふたり揃ってセブンティーンアイスを食べたりした。幻みたいに綺麗な水槽では、大小さまざまな海月が泳いでいる。私は海月がとても好きだから、すごく興奮した。こんな時間がずっと続けばいいのに、そう思って彼に抱きついてみる。彼は人目を気にして照れたが、そんなことも途中からどうでもよくなったのか、しっかり抱きしめてくれた。


 帰り道、何か晩御飯を一緒に食べようという話になって、渋谷で途中下車した。どんな料理が食べたいかもまだ分からなかったから、目についた店に入ることにした。渋谷センター街の風は冷たく、道路に散乱した様々なゴミやビラを吹き飛ばしていた。そんな中、どちらからともなく入った店は、焼き魚の店だった。

「俺ら人の心無いだろ」

彼がそんなことを言い出すから、思わずお冷を吹きそうになった。確かに言われてみれば、可愛いお魚を見た後にそれを食うというのは残酷かもしれない。

ゆっくり時間を掛けて、魚を食した。店を出て、この後はそのまま帰るのか、それともどこかに寄っていくのか話し合う。

「まだ帰りたくないなぁ」

私がそう言うと、彼も頷いた。
「だよな! じゃあ、渋谷スカイかカラオケ。どっちがいい?」

「久し振りにカラオケ行きたいなぁ」

「じゃあそれで」

夜の帳が下りた渋谷の街を、彼がずんずん歩いていく。私は何度も名前を呼んで、彼の背中を追い掛けた。だけど、彼との距離はどんどん開いていき、人混みは増える一方だ。私はとうとう、彼の後ろ姿を見失ってしまう。泣き腫らして見上げた空にはカラスが群れをなして飛び廻り、スマホの画面左上には「圏外」の表示。私は今、どこにいるのだろうか。何かヌメッとしたものが首筋に当たって、私は振り向いた。そこには、口を歪ませたタコの形の化け物が——。


 と、いつまでも初めての夜と翌日の水族館デートを夢に見てしまう。結末はいつも、その時々の胸中を反映するから異なるけれど。前戯だけで終わるセックスも今となっては日常で、壁にかけられたカレンダーは一番楽しかったあの頃から進んでいない。危険な日も、彼は前戯だけで力尽きるから、ピルを飲まずに済むのは有難いことだったけれど。月日の流れは早いもので、彼と交際してから二ケ月が経とうとしていた。

アラームの音で目覚めた私は、慧流のためにありものでサンドウィッチを作ってあげることにする。カーテンを開け、台所に立つ。冷蔵庫と野菜室を覗いて、ハムとレタスと卵のオーソドックスなサンドウィッチを作ることに決める。朝食を作ってあげるなんて随分久しぶりなのに、なぜか身体がこの光景を覚えている。そういう出来事が最近頻繁にあって、その度に私は不思議に思った。

ハムを刻んでいると、彼が起きてきた。私は声を掛ける。

「おはよう」

しかし、私の声は彼に聞こえなかったようで、欠伸をしながら寝惚け眼で便所に行ってしまった。数十秒後にトイレを流す音が聞こえて、私はその日一番、彼と目が合った。彼は急に目を見開いて、取り乱してしまう。

『おいおい……。お前誰だよ。なんで俺の家に勝手に上がり込んでるんだよ……。一体全体、何の権利があってそんなことしてんだ……。朝食なんて、俺いらねぇんだよ。気持ち悪ぃことしやがってよ……』

彼の顔は、心底不快そうに歪んだ。お酒の飲み過ぎで、私を家に呼び出した昨晩の記憶を失っているのかもしれない。長い前髪で目元が見えない。私は親切で朝食を作ってあげただけなのに、これはいくらなんでも酷い物言いではないか。彼の感情が、情緒が、窺い知れない。

彼はうざったそうに前髪を流して、そして私のことを睨みつけた。それは今にも、怒り出しそうな顔である。

『早くここから出ていけ……。お前なんかが踏み入って良い場所じゃないんだよ、ここは。聖域なんだよ。だから、一般人は早く出て行ってくれ……。汚い虫けらがいると、悪寒が走るんだよ……。早く……、早く出て行ってくれ……』

彼はいつの間にか、部屋の隅に無造作に置かれたまま使われていなかったステンレス製の物干し竿を手にしていた。怒らせてしまったようだ。恐怖で動けない私に、じりじりと距離を詰めてくる。

「待って。ちょっとだけ、待って!」

大きな声を出したのが、逆効果だったかもしれない。彼は驚いたような顔に一瞬だけなって、その後、鉛のように重い物干し竿を思いきり私の太腿のあたりに振りかざした。雷撃に打たれたような痛みが走り、私は抵抗すらできずその場に蹲った。

それから、彼の攻撃はこちらに休む暇すら与えず繰り出され続けた。脇腹や、脹脛や、後頭部や、肋骨を何度も何度も殴られた。頭突きや蹴り、そして極めつけは猿轡を嚙まされた末の、蹂躙。私はもう涙すら涸れて、ただただ狂ったような行動をし続ける彼の顔を覗き込んでいた。3時間ほどに及んだと思う。正午を告げる鐘が鳴って、彼は急に正気に戻った。痣と血に塗れた私の身体を、洞穴のような目で見つめた後に、顔を覆って泣き出した。3時間、彼は何かに取り憑かれているようだった。だけど、「ごめんね」と言って何度も頭を撫でられると、この地獄を耐え抜いた私は凄いのではないかと、自尊心が満たされた。彼は私の猿轡をすぐに外してくれたし、物干し竿を元の場所に戻して床の血を拭った後に、「お昼は一緒にサンドウィッチを食べようか」と提案してくれた。私は彼のことを、尊敬した。

時針がもうすぐ1時を指そうとする頃、私は帰るように言われた。さっきまでの狂った態度とは打って変わり、「気を付けて帰るんだよ」「また遊ぼうね」などと優しい言葉を何度も掛けられた。私はアパートの玄関を抜ける。入れ替わりみたいにアパートに戻ってきた女性はなんだか眠そうで、欠伸をしながら中へ入っていった。私にもその欠伸は乗り移って、眠気を呼び覚ます。今夜は高校時代に文芸誌を創ったメンツで同窓会がある。少し疲れてしまったから、家に帰ったら約束の時間の1時間前くらいまで休むことにしよう。早くみんなに会いたい。


 家を出なきゃいけない時間のギリギリで目が覚めて、急いで身支度を整えた。飲み会が開かれる居酒屋は、電車でふた駅ほどだからすぐに到着できるとは思うが、まず最寄り駅まで歩く時間を考えると、もう遅刻は確定している。遅刻を詫びるような文章を幹事の男の子に送って、家をひとまず出た。電車の中では、公共の場においての適切な距離感を測れない学生カップルがいて、私は苦笑いを浮かべながらも、そんな日々を懐かしみ、そして羨ましく思った。改札を出て、右へ行けばいいのか左へ行けばいいのかすらも分からなくて、すぐに地図アプリを開いた。どうやら左の道を進んで、3つ目の信号で右に曲がれば、左手に飲み屋が出てくるらしい。既に集合時間に遅れる連絡を入れているからか変な余裕があって、個人で経営しているこだわりがありそうな書店や、絵に描いたような電気屋さんに意味もなく寄ってみたくなった。だけど、「まだ〜?」と幹事の男の子から催促が来て、我に返った。早足で、歩き出す。

その居酒屋は、焼き鳥を売りにしていた。私が店に入ると、炭火焼きの煙が天井までもうもうと昇っており、業務用の黒い換気扇に吸い込まれていた。掘り炬燵席の奥に陣取り、既に乾杯もしたのか、楽しそうに盛り上がっている彼らに私も混ざる。遅くなって申し訳ないという意味で右手を上げたら、「ああ大丈夫だよ! もう一人、遅れてくる奴いるから!」と赤い顔で八重歯を見せながら、幹事の男の子が笑った。私は聞き返す。

「えっ、誰?」

「バカお前、今をときめく作家先生だよ」

昔から老け顔の男の子が、神や仏など崇高な存在を崇めるような仕草をしながら言う。

「あ〜、火伏くんね」

 この冬、彼は「芥川賞候補作」となる『電聞(でんぶん)』を発表し、大きな話題を呼んだ。文学の名作古典を大胆に換骨奪胎し、その時代にスマートフォンやAIが存在したら、というテーマで描かれた本作は、本屋大賞にもノミネートされている。そんな彼の青春時代、私たちは、共に創作をしていたのだ。今宵集まる4人のうちで夢を叶えられそうなのは彼だけになったけれど、それでもかつて隣に机を並べて物語を描いていたということは誇りだった。早く姿が見たい、そしてもしも芥川賞を受賞したならば会見でどんな事を言うつもりなのか聞きたい。

「そんなことよりさ」

二人は顔を気まずそうに見合わせた後、私の顔を覗き込んで言った。

「大丈夫?」

私は顔に何かついてるのかなと間抜けなことを思ったけど、軽く指先で触れて思い出した。私の顔には、慧流の愛の痕が残っていた。なんで二人はそんな風に暗い顔をするのだろう。私はただ、望んで愛されただけなのに。

「あっ、いや別に、エリが辛くないならいいんだよ、全然。なんか、ごめん、変な空気にしちゃって」

私は笑った。努めて、笑顔を作った。大丈夫、私は幸せだから。大丈夫、私は幸せだから。大丈夫、私は幸せだから。そう大丈夫、私は幸せだから。だけど、どうしてだろう。涙が溢れて止まらない。

その時、背後で引違い戸が開け閉めされる音が聞こえた。振り向くと、そこには火伏くんの姿があった。ナイキのトラックパンツにハーフジップ、そこにレザーのジャケットを羽織っている。彼はサングラスをしているが、ホクロの位置を覚えている私は、すぐに彼であるとわかった。怪訝そうな顔でこちらを覗き込んできた後、歩み寄ってくる。

『エリ、あいつと大丈夫か?』

彼は開口一番、そんなことを言う。私は頷いて、「今すっごい幸せだよ」と答えた。だけど、なんだろう。この、喉元に何かが突っかかっているような感じ。私が口をパクパクさせていると、彼が私の耳元で囁いた。

『無理なんかしなくていいんだぞ』

私は頷いた。彼が掘り炬燵の対面に座って、宴会がいよいよ始まる。

「火伏の芥川賞候補入り、そして新刊の発売を祝ってカンパーイ!」

なるほど、今日はそういう集まりだったのか。グラスとジョッキがぶつかる、こつん、という間抜けな音を聞きながら初めて気が付いた。焼き鳥を各々が注文した後、火伏は『ホッピーセット』と言った。言い方が渋くて、ちょっとエロかった。

「それで、だよ」

幹事の男の子が切り出した。

「芥川賞、正直どうなのよ」

火伏は苦笑いをした後、「いやぁ分からないね。正直、誰が選ばれても文句無しの出来栄えだし、俺は自分の小説よりも小砂川チトさんの小説のが好きなんだけどね」と呟いた。笑った。

「じゃあもし受賞したらさ、会見でなんて言おうかとか考えてるの?」

火伏は後頭部を掻きながら、正直あんま考えてないんだけどね、とだけ言った。

……正直、あんま考えてないけど?

「昔から一つやってみたい事があってな」

「なに?」

私が聞くと、「俺を学生時代に虐めてきた奴とか、嫌がらせしてきた奴を呼び捨てで、壊れた機械みたいに延々と読み上げるんだよ」と答えた。

昔から彼の言うことは冗談なのか、本心なのか分からない。だから当然場が凍りついたのだけれど、彼はどちらかと言うと本気そうな目線で真っ直ぐ正面を見据えていた。

その後、それぞれの近況について報告し合った。子供が産まれたとか、会社で左遷させられたとか、色々な話があって面白かった。私はというと……、何も話せなかった。誰も、言葉に詰まった私を責めはしなかった。いつもはもっと飲めるはずなのに、今日は妙にアルコールがすぐ回ってしまった。そんな自分を情けなく思いながら、冷やし胡瓜をずっと食べていた。

終電の時間が近づいてくると、一人は『俺、明日も仕事だから抜けるわ』と言い、もう一人もそれに続くように『すまんが、俺も』と言って二人とも示し合わせたように五千円札を置いた。『釣りはご祝儀ってことで』と言いながら鼻の下を伸ばすので、穴から飛び出た鼻毛が何ミリ伸びているか目測ではかろうとしたけれど、その時間すら与えずに彼らはいなくなった。

火伏が愉快そうに笑いながらその後ろ姿を見送るので、「なんか面白いの?」と聞くと、「いや、幹事のサスケは本当に明日仕事っぽいけど、タイキはこっからキャバレーに行くらしいよ」と言って、更に楽しそうに笑った。

それから二人の時間が始まって、だけど、特に何かを話すというわけでもなかった。私たちはずっと無言でお酒を飲んで、グラスが空になったり、ツマミが減ってくると、その都度ベルを鳴らして、店員を呼んだ。私たちは何か愛の言葉を囁き合わずとも、傍にいられるだけであの頃に戻ることができた。終電は無くなってしまったけれど、私たちは狭い教室の中、授業が終わるのを知らせる鐘を待つように、硝子の外を眺めていた。卒業式の日、花のコサージュを胸につけて、私と彼は紅白幕がびっしり貼られた道を並んで歩いた。彼は「将来どっちかが夢を叶えられたら、またこうして隣を歩けるよ」と独りごちて、自席に向かっていった。その後ろ姿が最後で、それからは連絡もつかなかった。彼が上京したのを後から聞かされた私は、どうして言ってくれなかったのだろう、と何度も泣いた。だけど、彼が自分を虐めたり嘲笑してきたクラスメイトを心の底から恨み、彼らと同じ街の空気を吸うことにすら嫌悪感を覚えていたのではないか、と考えると何も言えなかった。

「お客様、あと30分で閉店になりますが、ラストオーダーはございませんか?」と、店員が声を掛けてきて、私は我に返った。「大丈夫です」と笑顔で答えた後に、火伏の方を向き、「大丈夫だよね?」と問い掛けた。彼は頷いた。

私と彼は交互に用を済ませて、閉店10分前に店を出た。ポツポツとしか灯りのついていない飲み屋街を抜けて、私は久々にあの街の景色を見た。川が流れている街だった。桜並木の奥に雪化粧で綺麗になった山陵が見えて、私は澄んだ空気を吸い込んだ。目蓋を開けたら目の前に彼の唇があって、私は優しく口付けた。果実みたいな、そんな味がして、私の目には再び、猥雑な裏東京の景色が戻ってきた。


~12月~

 その夜、彼とホテルに行ったかどうかは記憶がない。だけど数日後、彼から貰ったであろうホッカイロが冷たくなってポケットから出てきたから、あの後私は帰されたのかもしれない。キスの味も既に曖昧で、あれ自体幻想だった可能性も充分あった。私は慧流の部屋にいて、机に向かっていた。慧流は苛立たしげにソファから、私のことを見下ろしている。机にはガラスペンとインク、そして白紙があった。私は歌詞を書かなければいけなかった、と思い出した。

 数日間で、私は3曲の歌詞を書いた。
だけど、それから何を書けばいいのか、どうやって書いていたのかが突然分からなくなってしまって、そしたら涙が溢れた。品川に向かう電車の中で交わした約束が、守れそうになかった。クリスマスイブは家に立ち入ることを禁じられて、私は本命の彼女じゃないのだなと気付いた。年の瀬、私は時折露わになる彼の性器を口に含んだり、ステンレス製の物干し竿は勿論、ジャックダニエルの瓶などで殴打されたりすることに耐えながら、彼の部屋に居座り続けた。大晦日が最も酷かった。けれど一度部屋を出たら、私が不在の間に鍵を変えられたり引っ越されたりしてしまって、二度と会えないような気がした。だから私は、我慢するしかなかった。そしてとうとう、電脳猿轡の対バンの日を迎えた。

~1月~

 下北沢のライブハウスは、比較的場末にある割に大勢の聴衆で賑わっていた。今夜は、慧流のやっている『電脳猿轡』というバンドと、『Sudaren』というバンドの対バンがある。そのポスターを発見したのは、11月上旬のことだった。

私は今夜のライブが無事挙行されたことが、凄く嬉しかった。『電脳猿轡』の一ファンでもあったし、何より慧流の彼女として、足を運ばないという選択肢は無かった。

慧流の歌声は、自分だけのものだと思っていた。それなのに、今になって私はそうではなかったと気が付いた。ライブハウスの前に人集りを作る若い女の子たちは、どうやら彼の歌声の美しさを既に認知しているようなのだ。私はその会話に耳をそばだてずにはいられなかった。

『さとるんの歌声、マジで尊いよね!』

『私なんてもう、シャイトープの〝ランデヴー〟のカバーとか50回くらい聴いたもん!』

『TikTokのやつ? 私、〝耳にタコができるほど聴きました〟ってコメント書いたら、さとるんから“キモイな笑”ってリプ来たよ。私、さとるんの毒舌なとこも好きなんだよね〜』

〝タコ〟というフレーズを聞いて、私は慧流に甘えたあの夜の公園の、独特な遊具を思い出していた。私の愛する慧流を賞賛するような意見が頻繁に交わされ、私はひとまず安堵した。だが、ベージュのチェスターコートを着た青い瞳の女が、緩いカールのかかった後ろ髪を弄りながら言った。

『いやでもさ、暴露系YouTuberのあの切り抜き見てないの? 慧流くん、女の子に暴力振るってるらしいって』

「は? あんなデマ信じてるとか、お前それでもファンかよ。失格だよ、帰れよゴミ」

気の強そうな女が目を剥いて言い、取り巻きの女たちも敵意剝き出しの視線と糾弾を彼女に注いだ。私もそれに混じって、彼女のことを口汚く罵倒した。彼女はヒステリックに絶叫して、駅の方面へと走っていった。

全てが初耳だった。慧流がティックトックでどうやら弾き語りの動画を挙げていたらしいことも、普段華奢で弱そうな彼がファンの前では毒舌なことも、そして頭のおかしいYouTuberが慧流にとって都合の悪い情報を世間に流していることも。私は、自然と腹が立っていた。右手には彼から貰ったチケットをぐしゃぐしゃに握りしめ、左手には飲みかけのストゼロの缶を持っていた。ライブはもうそろそろ開演時刻になる。そろそろ会場に入らないとまずい。私はストゼロの中身を、近くの側溝に捨てながら、その泡を見て思った。そうだ、その暴露系YouTuberには泡を吹かせてやればいい。出る杭は、二度と声を出せなくなるほど打ってやればいい。

ライブは、とても良かった。照明の演出がとてもムーディーで彼らの音楽の雰囲気に合っていたし、歌詞がプロジェクターで壁に映し出される演出も凄く好みだった。だけど、アンコールでは少し納得がいかない場面があった。

「ファンのみんな、いつもたっくさん『反吐息』を聴いてくれてありがとう。俺はこうして曲が伸びていくのを見ていると、あの頃は辛かった失恋も歌詞にして良かったなって思います。それでは、お好きなように聴いてください。電脳猿轡、〝反吐息〟」

慧流はいかにも自分が書いた歌詞のように言ったが、『反吐息』の歌詞は私が書いたものだ。可愛い女の子たちの心を射止めているあの歌詞は、私が頼まれて書いたものだった。それなのに、どうしてよ慧流。

吐きそうになるわ 忌わしい
それが私の日常で
どうしてだろう 息苦しい
お願いダーリン褒めないで
綺麗だなんて言われたら
割れた鏡の破片すら
私、愛おしくなってしまうのよ
壊される前に壊したかったのにな

生きたいと思うは馬鹿らしい
あなたとの夜のためだけで
どうしてだろうイき苦しい
あなたと口づけ、蜜の味
もっと触ってほしいのに
不意に幸せが怖くなった
何も言うこと無いよって思ってもない毒
ごめんね、帰るね

私の書いた言葉で会場が息をのみ、数人はハンカチを手に啜り泣いていた。私は、狭いライブハウスの中で、聴衆全員を「気持ち悪い」と思ってしまった。ポケットの中に手を入れて、そこにあるスタンガンを握った。


 私はその窮屈な箱の中で発狂し、スタンガンを手にステージに駆けていった。ライブ半ばのMCで、Sudarenのボーカルが慧流を馬鹿にするような発言をしたことで、私の堪忍袋の緒は、ぷっつりと切れたのだった。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

私は何も考えられなくて、背の低いフェンス目掛けて突進していた。だけど、すぐに警備員が私のことを羽交い締めにしてくる。私はそいつを気絶させようとスタンガンを出したが、それはスタンガンなどではなく、慧流が普段使っている五枚刃の電気シェーバーだった。私はあっけなく取り押さえられ、ライブは中止になった。私はまたこれか、と溜め息をついた。幼い頃から私は、身近な物を妄想で、武器や魔法道具に変える趣味があった。例えば、おばの使っていた杖を魔法のステッキだと思い、それがあれば空も飛べるはずだと考えた私は、おじが枇杷の木から実を収穫していたはしごで家のブロック塀に上り、そこから飛び降りて、骨折した。しかも運悪く、先に着地したのは杖の方で、私はそこに突き刺さるように転落して、鳩尾が抉れて、焼けるように痛んだ。そして、その周辺の骨は発育途中の大事な段階で折れてしまい、私はそれを庇うように猫背になった。その事故のせいで、私は中学校へは一度も登校することができなかった。

私は、同じような愚かなミスを繰り返してしまった。そもそも日本国内でスタンガンの所持は認められていないし、私は仮にそれが本物だったとして、慧流の大事な対バン相手をどうしようとしたのだろう。事情聴取を受けることになって、私は適当に、うん、とか、ああ、とか言った。私はまた裸にならないと許されないんじゃないかと思って、脱ごうとしたら腹を警棒で殴られた。その時、ぴくっと返事をするみたいに私のお腹が動いた。私はどうやら、妊娠していたみたいだ。誰の子供か分からないけれど、私はパトカーの中で「やっと私にもコウノトリが舞い降りたのだわ!」と狂喜乱舞し、数十分もすると呆れたような顔の警察官に釈放された。

その夜、私は電気も点けずに慧流の帰りを待った。東京では初霜が観測されたみたいで、幾分冷える夜だ。私は、慧流がもう帰ってこないかもしれないと思った。壁紙のめくれた部分を指で弄ってみる。まるで、ボロボロの私みたいだと思った。青白い月光が、窓際で背を向けたコルクボードを染め上げている。私は、久々にそれを裏返してみた。そこには沢山の、慧流の写真があった。どれもライブでキレッキレの演奏を披露する、かっこいい姿だった。

「綺麗だな」

思わず声に出してしまうと、私は本当に彼のことが好きなのだなと思った。息が白かった。胸がひどく締め付けられて、腹を擦った。

そんな孤独な静寂を破るように、部屋の固定電話が鳴った。

「はい、エリです」

電話口の相手は三十秒くらい無言で、私は切ろうかと思った。
しかし、慌てふためいた様子で突然、すみません、警察の者ですが、と名乗ってきた。私はついさっき事情聴取を受けたばかりだったので、面倒くさくなって言った。

「警察がなんですか? 私がお話しできることは、さっきパトカーの中でお話したことで全てなのですが」

警察は、「はぁ、そうですよね、ですが、今回はそれとはまた別件で、お話があるんです」と言った。妙に歯切れが悪く、私は舌打ちが出た。

「なんですか? 慧流がまた何か、やってるんですか?」

 私は、ドキリとした。慧流が何か犯罪に手を染めている可能性を自分の中で想像しているような口振りに、自分自身驚いてしまったのだ。

「また、とはエリさん、どういうことですか? あなたは何かされていたのですか?」

エリはもう、隠しきれないなと思って正直に答えた。

「私は、〝解体〟と〝運搬〟を手伝ったんです」

けれど、私が答えたものは警察の想像とは違ったらしく、「え?」と声が聞こえてきた。

「もう一度言ってもらっていいですか?」と、警察。

私は、いえ、間違えただけなので、気になさらないで下さい、と言った。

「そんなわけないでしょう。私たちはあなたの味方ですから、安心してください。あなたの悲鳴を聞いた隣人が、何度も通報してくるので、慧流さんが暴力を振るっているものと見ているんですよ」

警察の言葉に私は「違う! あれはきっと、愛の裏返しなの!」と叫んだ。警察は一瞬驚いたように「わっ」と変な声を漏らしたが、「それに……」と言って続きを濁したまま黙った。

「なんですか?」

私が苛立って続きを急かすと、「彼氏さんのバンド、芥川賞候補にも選ばれてる作家が書いた、好きな歌詞を紹介する記事で知名度が急激に上がって売れたらしいじゃないですか」と言った。

私は急いで、インターネットを開いた。
素早く『電脳猿轡 好きな歌詞』と検索窓に打ち込んでみる。

「これって……」

私は思わず、手で口を覆う。
記事のタイトルは、〝私の好きなことば【歌詞編】トップ10!〟である。
記事のサムネイルは、綺麗なイルミネーションの背景に青インクを溢したようなデザインだ。そして、そのインクの水溜りに“私の好きなことば”とロゴデザインが重ねられている。私はこの記事をどこかで見たことがあるような気がした。

「まぁ、身の危険を感じることがあれば、この番号に連絡してください」

そう言って、電話は切れた。

〝電脳猿轡〟がライバルの多いインディーズの音楽シーンでヒットしたのは、実はこの記事の効果だったのではないか。そして、この記事は金を積んで書かれたものだったのではないか。そうでもなければ、偶然でもこんなにいかにも後から挿し込んだような位置で紹介されることはないだろう。慧流は、自分のバンドの名前を有名作家に売ったのではないか。私は急いで、彼の銀行口座の通帳を見た。そこには、記事が公開された11月30日の正午、約5万円の出金がされた記録が残っていた。ただ、発見はそれだけに留まらなかった。

記事のサムネイルになっている、イルミネーションの風景。
私はそれに見覚えがあった。私の働いている「マリンバイブ」の近辺だ。私の帰り道にある、東急キャピトルタワーの前の通りだろう。記事が私に近付いてきているような気がした。まるで、たまたま手に取った本が自分のために書かれたのではないかと思うより身近に。

私は怖くなって、台所で紅茶を淹れた。猫舌だからふーふーしてもまだ熱くて、舌がピリッとした。その時、玄関のドアが開けられる音がして、私はビクッとした。慧流が帰ってきたのだ。帰ってきた途端に彼はいつもの鉛みたいな物干し竿を持って私のことを殴った。私が蹲ろうとすると、後ろ髪を掴んで立ち上がらせ、もう一度物干し竿で殴ってくる。私はひとまず、彼が喜ぶようなことを言おうと思った。

「慧流! やっと私たちの子供ができたよ! だからもう、殴らないで、お願い!!」

それを聞いた彼は更に顔を歪めて、私の顔を思いきり殴った。口の中に物干し竿の先端を押し込んできて、私の喉は潰された。

「俺の子供ができるわけねぇだろ! お前、頭おかしいから病院に行け! 浅ましい女だ!」

ケトルのお湯がまだ熱いことを確認した彼は、私の身体に躊躇なく熱湯を浴びせた。私は叫ぼうとしたけれど、声にならず、失神した。それで私は、もう夜の世界では働けないことを悟った。


 目が覚めると私は、慧流が運転する車に乗せられていた。猿轡を嚙まされているが、目隠しはされていない。私は視線を持ち上げ、窓硝子の外に映る景色を見た。しかし、すぐにそれは見覚えのない街であることが分かった。白い箱のような建物が何棟も連なっていて、それは何だか地表を突き破って姿を現した、いにしえの住居みたいだった。だけど、アラビア数字や記号で区域分けされているのを見ると、やはりそれは現代人が集団生活を送っている建物なのだと判断することができた。私は都外だな、と思った。もしかすると故郷の近くにあったニュータウンを走っているのかもしれない。

私は訪れたことが無いのだけれど、そのニュータウンが出来たくらいの頃に両親はおかしくなった。カルト教団に傾倒して、熱狂的な信者になってしまった。たしか〝臨死ノ民〟とかいう教団で、人間には賞味期限があるということを繰り返し説いていた。私は「鮮度が落ちるから」という理由で、特に熱心だった父親から何度も尻を鞭で打たれた。だけど、それはまだマシな方だった。一番辛かったのは、父親に対して、性的な〝奉仕〟をしなければならなかった夜だ。


 私は風呂場にいる父親から突然来るように命じられ、震えながら風呂場へと向かった。するとそこには、おちんちんから血を流した父親がいた。父親は、ああ母さんよりも美しいあの人は、まるで聖母だった、だけど、手を出そうとしたらね、教祖様にバレてしまったんだ、俺は迂闊だった、何度も謝ったんだ、だけど、許されるわけがなかった、だってそれは、教祖様の娘だったのだから、でも、そんなこと知らなかったんだ、教祖様はポークソテーを切っていたナイフで、俺のこれを切ったんだ、俺は痛くて叫んだんだ、そしたらさ、俺を硝子の部屋に閉じ込めて、配下に持ってこさせた蝿いっぱいの袋を、放り込んできやがったんだ、もちろん、悪かったのは俺だと思う、でも、あの感覚が消えないんだ、まだ、羽音が聞こえるんだ、見えはしないけれど、群がっているんだ、ほら、聞こえるだろう? 羽音が。なぁ、俺は痒くて仕方ない、掻き毟りたいけど、そんなことしたら大事になってしまう、お前にしか頼めないんだ、なぁ憐れな父さんを助けてくれ、お前が咥えてくれるだけでいいんだ、それだけで、少しは多分落ち着くんだ、頼む、この通りだ、と言って土下座をした。私は禿げあがった頭がジャガイモみたいな歪な形になっているのを見て、泣きそうになった。もうすぐ切れそうな電気の下で、父親のペニスを咥え、そして父親が聖母に叶えてもらえなかったことを全て許した。

今考えてみると、あの夜、私は全てを失ったのだ。

 私は翌日家を出た。近くに運送会社の中継所があり、そこに止まったトラックの荷台に適当に乗り込んだのだった。そして、乗っているトラックがパーキングエリアに止まると、私はそこから降りて、中のフードコートで誰かを待ったのだった。適当なじじいに身体を売るかわりに、東京の港区まで連れて行ってもらった。私は、その街で生きていくことに決めたのだ。

車が止まって、私は回想から強引に、現実へ引き戻された。病院のだだっ広い駐車場だった。植え込みで区画を整理している感じが、田舎だなと思った。私は後部座席のドアを開けられ、力尽くで中へ連れ込まれた。汚くて臭いエレベーターに乗せられ、私は自分がどこへ向かうのかを知った。精神病棟だと思った。

私は当然、発狂した。電話を車中から繋げていたスマホに向かって、「助けて!」と叫んだ。相手は「今向かうよ」とだけ言って、電話を切った。慧流はおい誰だよ、と言って、私の顔を両の拳で何度も殴った。そして、腹まで殴ろうとするので、私は慧流の股間をハイヒールで蹴り上げた。痛いっ! と叫んで、彼が倒れた。医者が私の元に駆け寄ってきて、動けなくしようとした。私はお腹がまた動いたから、産婦人科の階に降りようとした。また殴られる。

外でハーレーのエンジンを止める音がして、階下が騒がしくなった。エレベーターが勢いよく上がってきて、火伏が飛び出してきた。

「エリ、大丈夫か!?」

火伏は手錠を掛けられそうになっていた私のことを抱きしめてくれた。
人のぬくもりは、こんなにも温かかったのかと感動して、自然に涙が出てきた。

火伏は慧流のことを責めた。慧流は火伏の姿を見て、眉を顰めた。

「なんでこんなことするんだよ」と、火伏。

「いや、お前はそもそもなんでここにいるんだよ」と、慧流。

「エリは、お前のことを愛してるあまりおかしくなっちゃったんだよ。なぁ慧流、恋愛ってのは案外そういうもんだろ」

火伏はそう言って、揉み合った時に地面に落ちた手錠を慧流に嵌めた。

「何すんだよ。お前、自分の小説が世間に認められそうだからって調子乗んなよ」

慧流は不快そうな顔で、言った。

「お前こそ、音楽に迷ってるのか知らねぇけど、ニヒルな表情作って女にモテてんじゃねぇよ。卑怯なんだよ、生き様全てが」

火伏も強く言い返した。すると、慧流が勢いよく火伏に頭突きした。

「何すんだよ!!」

 火伏はポケットからバタフライナイフを取り出して、慧流のことを刺した。白いリノリウムの床に、鮮血が溢れ出して、三途のようになった。私は頭がおかしくなったのか、笑いが止まらない。火伏に手を引かれて、私は病院を飛び出した。ニュータウンに面した海岸線が、眩しく光っている。

【後編に続く】

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