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「あんのこと」を観て、気づかされる日常と非日常のごく僅かな差異。

シネ・リーブル神戸で「あんのこと」を観てきた。
思いの外深く胸に刺さり、「あん」のこと、及びそれにまつわる関連した事柄を考え続けている。

最初に大きな話からすれば、この映画の状況において絶対的な正義とは何だろうか。
刑事は絶対悪だろうか。
記者は絶対正義だろうか。
周りの人たち(傍観者のこと)は何も罪を問われなくていいのだろうか。
見ざる聞かざる言わざる、と言った無関心層は「悪」ではないのだろうか。
そんな疑問が胸をよぎる。
以下ネタバレを含む。



普段一般的な生活をしている者にとってはこの映画の生活者は特殊に見える。「あん」であれ、その家庭であれ、刑事、記者も含め。

だがDV家庭や麻薬に手を出す人や売春、まともに学校に行けない人など一般社会の「レール」から外れ、戻りたくても戻れない人が多くいるのが現実だ。
ボクもこの映画ほどハードなケースには直接会ったことはないが、ソフトケースには時々会うことがあり、彼らは「嘘」をまとい、中々他者を近付けてはくれない。相当に警戒心が強いのだ。
一方、信じてしまうと騙されてしまう程心を許してしまう程純粋なハートを持っている人も多く、付き合い方が困難で対応する側の忍耐力と専門性が必要だ。
その点で言えば、刑事のような存在や活動は必要であり、助けを求めている人たちにとっては掛け替えのないもので、この活動に対して「何もしていない人」がとやかく言うことはできない。
反面、刑事の裏の行為は刑事の職務を逸脱したものであり許されるものではなく「会」が今後も存続していれば被害者が多く出た可能性もある。
悪い点を記者が指摘し記事にして告発したのはいいが、「会」のいい側面まで潰してしまった。

マスコミは何かと事実を伝えるのが仕事だと言い、センセーショナルな話題を追いがちで暴露したらしたで「ハイ、終わり。」と言うスタンス(それが仕事)。
だが、このケースのようにいい側面まで潰して「後はしらね。」で済ますマスコミ(一般論)に対し、やはり疑問に思わざるを得ない。

勿論ここまで書けば、じゃアンタならどうすんだ?って問いが当然あるだろうが、その問いに対しボクならで答える回答は理想論であるだろうから、答えには値しないだろう。残念だけど。

一回リセットして考え直そう。
「あん」はそんなに特別な家庭なのだろうか。yes。特別な家庭だろう。
でも、何回か救いの手があった中で、行政はどれほどかかわったのだろうか。真面目な話。
十分な行政案件だったと思われるが。。。

そして、「あん」のような家庭はまだあるだろうし、これからもある。
それに対し行政のシステム的な救いの手がないなら同じような悲劇的案件はずっと続くだろう。
一般のNPOなどにいつまで国は頼る気だ。
地域が変わればNPOも質や熱量も変わると言うのに。

「あん」のような少女少年はいつでも生まれ続ける。
今まで普通に生活していたと思われていてもある日を境に生活が一変し、困窮しだしたりする。一旦困窮しだすと立て直すのに相当な力がいる。或いは「運」がいる。
その差異を生むのは彼女たちではなく大人なのだ。
彼女たちは、非日常的と思われていたような生活がある日を境に彼女たちの意思とは関係なしに急にやってくるのだ。

それを救うのはやはり大人であったり行政であったり、大元は国であるべきだと思う。
生活が困窮している若者を積極的に救わない国なんて滅びても仕方がないんじゃないの?

この映画は、ボクのような人間や傍観者に対して多くモノ言う映画になっていると思う。
もっと身近なこととして捉え、考え、そして行動せよ、と。


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