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短編小説、宇能鴻一郎「鯨神」を読んで目に浮かぶ数々のシーンの創出は作者の想像力の裏付けとなっている地道な調査能力のたまものに他ならない、と思う。

宇能鴻一郎の短編集が2集再版され、読み進めているがどの作品も彼の「その後の活躍」とは概念を覆す純文学短編小説で素晴らしく、食い尽くすように今読み進めている。本来は短編集1集ごとに感想を書くのが常道だろうが、「鯨神」のあまりの迫力、世界観、生命(鯨、己)との対話、の素晴らしさに短編集全部を読む前にまずは「鯨神」だけで感想を書かずにはいられなかった。
以下ネタバレあり。

鯨神』(くじらがみ)は、宇能鴻一郎小説。第46回(1961年下半期)芥川龍之介賞受賞作。明治時代初期の長崎平戸島を舞台に、クジラに家族を殺された若き漁師による人生をかけた復讐が描かれる。

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上記に挙げた傑作短編集「姫君を喰う話」の2つ目の短編集が「鯨神」だ。
これを読んだ当時の評論家の誰かさんは「白鯨」の影響を指摘したそうだが、だからって何なんだ。インスピレーションを得てこれだけ膨らませて世界観を持って当時大学生だった彼が小説を書くんだから素晴らしいじゃないかい。

実際の鯨との戦いはまさに息を飲むほどの筆の勢いと言おうか、読む側も方言の読み辛さも気にならないほど食いつき、情景が目に浮かぶよう。
船も漁も経験がないのにも関わらず自分が傍にいて目撃者の一人のような感覚を覚える。家族、その絆などの関係性も短編ながらしっかりと描けているので、鯨神に対峙する気持ちの持って行き様の精神状態もありありとわかる。
調べると当時は映画もあったようで(当然だろう)、ただ映画の予告編や映画の出演者を見る限りでは、対鯨、対ライバルのスペクタクル映画として撮影されていたようで原作のような登場人物の心理的な心情を描けていたかどうかは分からない。一度見てみたいし、現代の技術でも観てみたい。
鯨だから現代では無理だろうが。

戦い終わったその後の一人称では、幻覚と妄想の死に至る過程では、長い死への時間が与えられた者が感じるであろう幻想の世界を自分も体験しているかのようだ。
時代や地域の違いがあってこそ、大きさや程度の違いがあってこそ、常に庶民に降り注ぐ不条理の現状を受け入れつつ、運命と戦う姿をしっかりと見届けさせてもらった感動もそこにはあった。

短編であるが故、語るべきことを最小限にしているところ、重視して語るべきところの取捨選択が心地よい。どうでもいいことをくどくどと語らせるよりいっその事無視して話を飛ばして先に進める潔さや、描写を簡潔に留める潔さもリズムを生んでよし。

長々と長編で小説を書いて説明することが必ずしもいいことではなく、短編小説でもしっかりと世界観を出して表現することが出来る。それは状況設定やキチンとした調査力、学習力で作り上げることが出来るのだ。

彼の他の短編小説からも伺える調査能力、情報収集能力の素晴らしさはしっかりと小説作りに反映されている。この「鯨神」しかり。
他の短編小説でも伝聞から組み立てる小説手法が披露されているが、どうもその聞き取り能力が作者は素晴らしく、また相手とのやり取りで深く聞き取ることの能力がたけているような気がする。要はインタビュー能力のようなものだ。そこからイメージする、想像する力を加え、独自の世界観を作り上げているように思える。これこそが彼の小説家としての強味ではないだろうか。


彼はどうして純文学の道を邁進しなかったのだろうか。興味をそそられるし、日本としては純文学の才能の一つを失ったようなもので淋しい限りだ。
この時代のその他の短編のエロ小説はかなりイケてるのでこの道でもよかったのに。
ともかく残念。

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