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家具はアンティーク、なのに服や本は扱いが「古着、古本」って…。

アンティーク家具が好きだ。
高いものは中々買うことができないが、サイドテーブルや鏡、グラスなど購入したことがある。
今に残る昔の家具は職人さんが丁寧に作った痕跡を指先でたどる楽しみや使われてきた方々の歴史や思い出の痕跡を何かしら探し出し想像するのも楽しみの一つだ。

アンティーク家具と同じように古着、古本も同じように良く購入する。
むしろ家具より数多く昔からも購入してきた身近なものだ。
生活にとって古着古本はボクにとって親近感が高いものだ。
職場の人と話すと意外とそうでないことに驚く。
でも、
アンティーク家具はいいらしい。

古着や古本の中でも特別な価格を付けるものがある。
古着であればジーンズが有名だし、古本なら希少本や特別仕様本、マニアック本などだ。それらの「特別」以外の古着古本はどちらかと言えば立場は弱いように思える。


先日、ノーベル文学賞作家のガルシア・マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」を単行本を古本屋で見つけ喜んで読んでいると、前の読者の方の傍線が所々引いてあるのに気づいた。購入する時は線が薄くて気づかなかったのだ。
すると、読みながらオモシロイ読み方をしだしている自分がいることに気づいた。ガルシア・マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読みながら、前読者の方は何に感銘を受けて傍線を引かれているのかと気になり始めたのだ。
文章表現でもなさそうだ…。
気づきを受けるところだろうか…。
などなど。

ガルシア・マルケスに集中しろ、って話なんだけど、たまにはオモシロい。
本にも読んできた人なりの歴史が刻まれる、って例。良し悪しあれど。


本には歴史的に図書館というものがあり、一つの本を多くの人に読み継がれるという文化がある。これはこれでとてもいいものだ。
ただし、これは公共性という条件の下、建築物こみの文化であり(とてもいい)個人では楽しめない。

そして、古着に関しては文化を作ってきただろうか。
古着に関しては、リユース、リフォーム、特にリフォームを含めた文化作りを今後模索しては如何だろうか。リフォームのための技術を持つ人の需要と活躍の場を含めて。
ファッションにも歴史があり、それにも関わらず消化されているイメージがある。
タンスから引き出され父母、祖父祖母から家族内の循環が最近ではあるようだが、文化として般化されたとは言い難い。ましてや服のリフォームに至っては。

事情を知らない素人が単純に思うに服は、今までであれば途上国などに需要があった可能性もあると思われる。これからも途上国や戦争などで避難して服に困る人はいるだろうが、そういった人たちにはそれこそ新品の安い服を送ってあげて我々は質のいい古着を循環させていけばいいのではないだろうか。
食料同様、過剰生産は不要。
それによる不当労働はもっと不要。

我々の生活様式を古着古本の価値を見直すことで考え直そう。


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