離島の何気ない一日とその奥にある深遠な物語

古川真人さんの「背高泡立草」という本を読みました。連休に離島にある母方の実家に行き、草刈りを手伝わされる一日を書いた物語です。途中、作中作がいくつも出てきて、それが離島の持つ独特の雰囲気を醸し出しているように感じました。
この物語の主人公が感じたように使われていない納屋の周りの除草をすること、あるいは貴重な休みの日を一日使って、行くこと自体に意味があるのかと聞かれると合理的な理由はない感じもします。一方で、業者を使ったり、除草剤を使わず、わざわざ船に乗って離島に行き、鎌を使って、草刈りに行くこと自体に合理性を超えたものがあるのかもと思います。
地方のローカル線に乗ると、過疎化が進んだ町を見かけます。そういう場所をぶらぶら歩いていると、初めて来たところなのに、おそらく20年前も30年前も同じ景色だったんだろうなと思うことがあります。
ただ、そういうところであっても、廃墟になっていたり、草が荒れ放題伸びているところは意外と少なく感じます。最近だと、おそらくもう人が住んでいない家も少しずつ増えていると思うのですが、人が住んでいないところも含めて、手入れすることで町が生き続けることができるのかもしれません。また、都心に出てしまった人がわざわざ帰って、わずかな時間であってもその町の空気を吸い、会話をして、関わり合いを持つことがコミュニティの維持に寄与するのかもしれません。
一方で、都心に出てしまった人や都心で育った人にとっては、田舎の独特の濃密な人の繋がりや、合理性を受け付けない風習などに馴染んでいくのは大変だと感じます。そういう点では、都心に集中することのリスクを感じる昨今ですが、今回のようなことがあったとしても、いきなり地方移住が進むとは思えません。
今回の物語では、主人公の母親が、草刈りにおいて大して戦力にもならない娘を無理やり連れて行くわけですが、少しでも空気に触れ、雰囲気を味わうことが大事なのかもしれません。先日読んだカヤックの「リビングシフト」でも地方に根ざすことの良さが書かれていましたが、私自身も地方の町や村との関わりを増やしてみるのも良いのかなと思いました。

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