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「あれは自分だけが体験できたことだ」って思いたくて。

めんどくさい自分を愛そうの巻。


こんな経験ありませんか。
「この前こんなことがあって、中々大変だったんだよねー」なんてことを話した後、相手に「分かるー。私もそれ経験したことあるよ、同じだねー」と言われて、なんだかモヤッとしてしまったことが。

「分かる、私も同じ」という相槌。
これ、私自身もされたことがあるし、もちろんしたことも数えきれないくらいだと思うんですが。

思い返してみると、この台詞を言った時、相手が何やらビミョ~~な表情をしていたような覚えがあるんですよね。
「ほんとー?笑」と言いつつもどこか腑に落ちていないような、そんな表情を。


どうやらこの台詞、理解を示そうとして放った言葉であるにも関わらず、相手の「モヤッとボタン」を押してしまう可能性が少なからずあるようなんです。

一体どういうことなのか。


たぶん、人というのは基本的には自分を肯定してほしい生き物です。

話す時に批判やブーイングを期待する人はそうそういないでしょうし、首を縦に振る反応が返ってきたら嬉しいものですよね。
分かってもらえてる、共感してもらえてる、と自信を持てますもの。


ではどうして、共感の気持ちを示しているように見える
「皆そうだよ~」
「あるあるだよねー」

といった言葉は、あんまり喜ばれないことがあるんでしょう。


私はこれ、結論を言ってしまうと、「自分を他の人と一緒のくくりに入れてくれるな」っていうことじゃないかと思うんです。

なんて傲慢な、と言いたくもなりますが、人間誰しも自分だけは他とは一味違う存在だと思いたいのではないでしょうか。

伊坂幸太郎さんの小説に、こんな台詞が出てくるんですよね。

誰だって自分だけはオリジナルな人間だと思ってるんだよ。 誰かに似ているなんて言われるのはまっぴらなんだ。俺はジョン・レノンに似ていると言われるのだって我慢できないね。


好きな子から貰って喜んで開けたらみんなが貰っている義理チョコと同じだったというのと同じぐらいの悲劇だよ。


なるほどなぁ、と思いました。

確かに私も、「○○にそっくりだね」なんてことを誰かに言われると、その瞬間に自分のアイデンティティがゴッソリ抜け落ちたような気分になることがあります。

顔つきとか、話し方とか、文章の書き方とか。
色々な所に表れているはずの「自分らしさ」が、本当は誰か他の人のものだったような気がして。
自分だけの大切なアイデンティティをその人に取られてしまったような、なんとも言えない悲しさを感じます。

今まで、それはただ私が欲張りで且つ自分に自信がないからだろうと思っていましたが、もしかするとそうではないのかもしれませんね。


そんな風に考えてみると、「私も一緒」「皆おなじよ」と言われて違和感を覚えるのも、これと似た理由からなのかもしれません。

自分の体験する一度きりの人生が、その他大勢の人も体験できるようなありきたりなものだと言われたように感じる。
だから、優しさゆえの言葉だってことは理解しながらも、少しモヤッとしてしまうんじゃないかな。


自分にとって大切な出来事が、他の人と同じなんて嫌。
自分の体験も、感じたことも、自分だけのものにしたい。
賛同はしてほしいけど、同じだとは言わないでほしい。
私の個人的な体験を、たった一つのものとして尊重してほしい。


そういう気持ちが、私たちの中にはあるんじゃないでしょうかね。



いやはや、何ともまぁめんどくさい。
人間というのは、なんてめんどくさいんだ!笑

もしも「それは違うでしょー」「ぜんっぜん分かんない」って言われたら、それはそれで傷つくくせにね。


でも、めんどくさい自分がいるということを理解するのが、他の人を思いやる気持ちに繋がるのかもしれないなと思います。

よく「自分がされて嫌なことは人にするな」と言いますがほんとにその通りで、自分が何を嫌だと思うのかを知って初めて改められる態度というのもあるはず。


人は確かに自分の主観を出ることはできないけれど、その中でわき上がる色々な気持ちをすくい取ってじっと観察することはできます。

愛すべき自分のこと、そして愛すべき他者のこと、これからも考えていきたいです。



ここまで読んでくださった方、ありがとうございました✨




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