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私の不登校時代

今日は少し私のお話をしようと思います。

私は中学1年生の夏、学校に行けなくなりました。
それからお家に引きこもる生活が始まりました。ご飯以外はほぼ寝て過ごしていたと思います。
お母さんから『明日学校行く?』と聞かれるのがもの凄く怖かったのを覚えています。
学校の先生がお家へ来ることも、友達から心配のLINEが来ることも怖くて怖くてたまらなかったです。

不登校になって数ヶ月が過ぎた頃、父と母がオーストラリアへの旅行を提案してくれました。
外へ出られなかった私ですが、海外へはとても興味があったので2つ上の姉と2人でオーストラリアへ行く決断をしました。

姉とのオーストラリア旅行

オーストラリアに来て1番驚いたことが、不登校について何も言われないことです。
"不登校"というだけで、辛い言葉をたくさん投げられました。父や母は私のそばでずっと見守ってくれていましたが辛かったと思います。
オーストラリアでは、『学校に行かないから何なの?』『たくさん色んな経験してるからいいじゃない?』『あなたはあなたでしょ?』そう言って貰えたことが心の底から嬉しかったです。

しかしほっとしたのも束の間、帰国すると現実が待っています。
学校へ行かなければいけないと分かっていても、身体が動きません。外に出るのが怖い、人に会うのが怖い、学校への1歩がでない。毎日毎日闘っていました。

結局中学校へは半分も通っていません。
幸い私は中高一貫校に通っていたので、高校受験はせずに高校へ進学しました。
高校は出席日数で留年がかかってきます。
高校進学する前、担任団の先生方からしっかり説明を受けていた私は高校へは毎日通う決意をしていました。

高1の文化祭

担任団のサポートも受け今まで学校に行ってなかったのが嘘かのように、1ターム目毎日通っていました。
しかし高1の夏、再び悪夢はやってきます。
夏休み明けの課外初日、朝起きると身体が動きません。学校へ行かなければと言い聞かせても言うことをききません。
そこから出席日数との戦いが始まりました。
不登校時代、1番これが辛かったです。
休めば休むほど苦しくなるのは分かっているのに、学校へ行けない。自分でも学校へ行けない理由が分からない。どうしたらいいの?なぜ私にはできないの?毎日自問自答しました。

そんな中、PTSDとパニック障害を発症しました。
病院に通いながら学校へ行くことに挑戦する日々。毎日毎日泣いていました。辛くて辛くてこの世界から逃げようと思ったことも何度もあります。
でも、私の手を離さず握ってくれる父と母そして家族がいたから今私はこの世界で生きています。

しかし現実は上手く行きません。
留年するか転校するか決断しなければいけない時が来ました。
1学年下に弟がいた私は、通信制の高校へ転校する決断をしました。
今まで進学校へ通っていた私は、私の人生ここで終わりだと本気で思いました。

私が選んだ高校は登校型の通信制高校でした。
通信制高校は毎日通わなくても規定さえクリアすれば単位がもらえます。
転校した時、単位だけは落とさず高校卒業資格を得ることを目標にしました。その代わり無理をしない。行きたくなかったら行かない。両親と話し合って決めました。
全日制の高校生のようにとは言えませんが、転校してから卒業までの2年ちょっと私なりの学校生活を送れたと思います。

これは担任の先生が教えてくれた言葉です。
今でもこの言葉を大切に過ごしています。
転校してよかったと思ったことはありませんが、転校したからこそ出会えた大切な人はたくさんいます。
校長先生、担任の先生、学校の先生。今でも連絡をくれたり、話を聞いてくださったり、温かく見守ってくれています。これも読んでくださってるかな?

そして不登校になって6年後、無事に高校卒業出来ました。私がまさか6年で卒業するなんて誰も想像していませんでした。
私には2つの大切な母校があります。
どちらの学校でも先生方が支えてくださり、今でも見守ってくださるからこそ大切な母校だと思うことができます。

不登校になって良かったとは決して思うことは出来ません。辛いことや悲しいこと、闘わなければならないことばかりです。数え切れないくらい涙を流しました。出来るものなら普通に学校に通いたかった。今でもそう思います。
しかし、不登校になったからこそ知った気持ち、出会った大切な人がたくさんいます。
お家を出ることすら出来なかった私が今ではオーストラリアに留学しているくらいですからね🇦🇺

不登校の先輩として言えることは1つ。
絶望したとしても必ず光は無くならないということです。何度も私の人生ここまでだと思いました。でも必ず道は開けます。頑張らなくていい。ただ生きているだけで十分です。

私は不登校時代、同じ経験をした人が社会に復帰している姿を知りたかった。希望の光が欲しかった。でもその手段がなかった。
私の経験が誰かの希望の光になれていますように。

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