ほんのひび 6

 本の書き手、つくり手がどんなに増えても、売り手がいなくなってしまったら、どうにもならないじゃないか。
 そういう考えから、自分で本を仕入れて自分で売っている。

 ここで大切なのは、つくる側が売る側にも下りてくることだと思っていて。
 でもそれは、大きな存在としてのつくり手(出版社)が、個人のつくり手と同じ場(即売会)に出て競争することとは違う。むしろ、できる範囲で、自分たちの本を自分たちで売る場を自分たちでつくってほしい。
 要は、まずまずの規模のある出版社が本屋(としての機能)も担ってくれればということだけど。損得勘定を抜きにして、自社だけでなく他の出版社の刊行物も取り扱うような、総合的な書店を。

 話が込み入りそうなので少し見方を変えて、自分がつくったものではない本を売るというのは、どういうことなのかを考える。
 考えすぎて、変なプレッシャーにとらわれて、調子を崩した時期もあった。それは本屋としての事業を始めた最初の2週間ほどの出来事で、「本屋のつくった本を仕入れて売る」ことには別の責任がかぶさってくるのかもしれないと、あとから振り返って思い当たった。

 本屋が出版社として刊行している本には、ダイレクトにその本屋のカラーが表れる。名と実が本当の意味でつながっていて、普通の出版社が出している本とは別の重みを感じる。そうした本を取り扱う以上、迂闊なことは言えない、誤った発信はできない。
 (とてつもなく勝手で一方的な立場から)その本屋の一部を背負って生きているような、無言の重圧が全身を覆っていた。
 そんな感じで、2月の下旬あたりが一番しんどかった。

 個人差はあれ、何事にも慣れというのはあるもので、齢を重ねるほどに神経が図太くなっていくものだから、だんだんとそういう重みは感じなくなっていった。仕入と販売を積み重ねていくなかで、自分の部屋の一部になっていく在庫との精神的な距離感が築かれてきたんだと思う。
 逆に物理的な空白がどんどん埋められていき、こうやって文章をしたためている自分の半径2メートル以内に仕入れた本のすべてが箱詰めされている日常も、まるで違和感なく受け止められている。
 むしろ、その状況が面白過ぎて笑えてくる。

 できるなら、「私」自体は、ただ間に立つだけの役割として在りたい。
「私」がなんらかの主張を発信してフォロワーを得るのではなく、「本屋の本」を知ってほしい。知ってもらった先に、その本が売れたり、今は売れなくてもいつかは売れたり、その本屋に足を運んで買う人も出てくるかもしれない。
 そもそも本屋は、本を売るから本屋なので、自分が目立ちたいから本屋をしているわけじゃないんだろーなって、なんとなく答えをぼかして、突き放した地点に立ってみたときに、少しは自分が本屋らしくなってきたのかは、まだ分からない。話が変わりすぎた。

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