赤い記号と横断歩道
のっぺらぼうが来よったわ。
御年九十に至ろうかという祖父に、とうとう認知症の症状が見られるようになったと連絡があったのは、昼の休憩が終わろうとする頃だった。
「え、それって、幻覚か何かってこと?」
そうなるんでしょうねえ、と電話口で呟く母の声は、至って平静だった。冗談半分なのか、千葉の片田舎でひとり暮らしを送っている祖父を気に病む気配は、あまり感じられない。
相方である祖母を亡くしてから、10年。祖父は、親族からの再三にわたる説得にも頑として首を縦に振らず、定年を迎えたあとに移り住んだ自分の「城」から、離れようとしない。実際、体も頭もすこぶる快調で、地域のボランティア団体の一員としても、頼りにされているらしい。そういうことを、正月に訪ねたときに自分から熱く語るものだから、これは当分ひとりでも大丈夫と、タカをくくっていた私もいる。
「ごめん、昼休み終わるから、夜にまたかけるけど。様子見に行ったほうがいいよね」
「んー、まあ、のっぺらぼうがどうとかってのは、話のついでに出てきたような感じだったから、…。それ以外は、まともなんだけどねえ」
「うん、とりあえず、また夜にね」
一方的に通話を打ち切って、スマホをバッグに突っ込んだ。ちょっとめんどくさいことになりそうな、そんな予感を抱いていた。
翌日の昼下がり。昼の1時を回る頃に、私の足は祖父の待つ家の最寄り駅に、降り立っていた。
ついこの間まで、寂れた田舎の雰囲気を漂わせていたのに、階段の代わりにエスカレーターが設置されて、駅員の消失とともに自動改札機が導入されて、駅構内が小綺麗にまとまった。自分がいま住んでいる町の駅と比べても、よほど現代風にアレンジされている。
そして祖父もまた、スマホでLINEを送れば、1分以内に返事してくるぐらいに、時代に順応している。
バスに20分ほど揺られてから降りる。さすがにこれだけ駅を離れると、中心部ほど騒がしさには包まれていない。2階建ての一軒家が、道なりに連なる住宅地を歩いていくと、やっと祖父の町に来た、という印象が強まる。子どもの頃、夏休みのたびに訪れては、徒歩5分でたどり着ける公園とショッピングセンターまで、定点観測でもするみたいに歩いて向かった。そんなときは、いつも祖父が一緒だった。
祖父の家の玄関に立ち、考える。電話口の声は、これまで耳にしてきた祖父のそれと、なんら変わりはなかった。まあ、ここで不安に駆られていてもしょうがない。
インターホンに人差し指を伸ばしたら、おい、と、のっそりした声に呼び止められた。
「早かったな、真希子」
庭のほうから顔を覗かせた祖父が、茶色く縁取られたサングラスの下に、上下の歯を剥き出しにして、満面の笑みを浮かべていた。
「しばらくほっといたら、草がぼうぼうに生えとってな。ざくざくむしってたとこだ」
額に巻いたタオルで汗を拭って、私の煎れたお茶で一息つくと、祖父は窓越しに庭を見遣った。「庭いじり」が趣味だった祖母が亡くなってから、鉢の数は増えなくなったけど、庭の草木は死に絶えることなく、季節に応じて、その姿を変えている。
「手伝おうか、草むしり」
「あー、いいいい。わざわざ休みつぶして来てくれた奴に、そんなこたぁさせたくない。それより、どうした急に。ジジイが呆けてないか、心配になったか」
「まあ、そんなとこかな。ヒデジイ、元気っつっても、もうすぐ90だから。ハハも気にしてるよ」
「俺ぁはな、この家離れる気はねえよ。でも、安心しろ。どうしようもなくなったら、ちゃんと行くべき場所に行くさ。迷惑は、かけん。そのための金だってある。自分の身の始末は、自分でつけるわ」
「迷惑かけんって、…、施設に入るつもり?」
「今から一緒になんて、暮らせんだろうがよ。先が知れてることなんざ、俺が一番分かってる。気にすんな、大丈夫だ」
それが、強がりか何かには聴こえないから、こっちも困ってしまう。本当に、気に病むことなんてないんじゃないかと、期待してしまう自分がいる。それは母も同じだろう。
私が黙っていると、祖父は湯のみを一気にあおってから、探るようにして言葉を紡ぎ出した。
「ま、あいつが見逃してくれればな、…」
「あいつ?」
聴き咎めた私に、一瞬とぼけたような表情を浮かべて、ため息混じりに笑みをこぼす。
「ああ。怖い怖い、のっぺらぼうがな」
こんな家に一晩いても、面白ぇことなんかひとつもねえぞ。そう、祖父には言われたけれど、その日は泊まることにした。
私が、祖母の得意にしていたホワイトシチューをつくると、意外と料理上手いな真希子は、なんて言われてしまった。
「寝るのは、バアサンの部屋でいいか。鍵かけられるとこが、ほかにないんでな」
「いいよ、ヒデジイの隣で寝るから。居間に布団並べればいいよね」
「おう、…。間違いが起こっても知らねえぞ」
真面目な顔して、そんなこと言うもんだから、深く考えずに私は聴き流した。「何言ってんだか。何も起こりゃしませんて」
一番風呂を終えて、祖父が戻ってくるまで、ぼんやりテレビを眺めていた。実際、何をしに来たのか、よく分からない状態だった。例の、のっぺらぼう発言を除けば、祖父は至っていつもどおりに思えた。
母への報告は、明日でいい。そこまで考えて、少し、うとうとしていた。
瞼の向こうに、何かが近づいてくる気配がして、ぼんやりと霞がかっていた意識が、ゆっくりと覚醒に向かっていく。
チカチカして、眩しいな。そうのんびり構えながら、寝ぼけ眼で瞼を開いた。
人が、いた。
全体の輪郭が、人の形をしているから、そうだと感じただけで、それ以上の理由はない。
そして、赤い。真っ赤というよりも、赤い粒子が寄り集まって、人の形を成している。それが、私を見下ろす位置に、直立不動の姿勢で、立っている。
ふと、気づいたままに、思う。
ああ。
確かに、顔が、ない。
それ以上は、何も考えつかなかった。私は、微動だにすることさえできず、ただ、じっと、その人を見つめていた。
おい、と、しわがれた、それでいて鋭い声音が、赤い人の背後から飛んできた。「そいつは、関係ねえだろ。なあ」
改めて眺めた、その人の姿は、実際には赤とは違っていた。赤いのは、全身を覆う部分だけで、その人自体は、くり貫かれたように真っ白な体をしていた。ちょこんとした帽子だけをかぶった、不可思議なシルエットめいた。
夢か、と自分に言い聴かせるようにしていたところで、霧が晴れていくように、その人の輪郭がぼやけていくのが分かった。
姿が完全に消え失せた頃、自由になった体がばねのようにしなって、私は前のめりに倒れた。
「真希子、大丈夫か」
倒れ込むようにして、私の前に座り込んだ祖父に、なんともなんとも、と首を左右に振る。そのときになって、今まで全く体を動かせずにいたことに気づいた。
「…、ヒデジイ。今の、何?」
「最近つきまとってくる、のっぺらぼうさ。真希子と俺を見間違えたとは思えんがなあ」
「あの、それで、…、なんなわけ、あれって」
「眼の敵にしてんのさ、俺をなあ」
祖父の応えは、何処か要領を得なかった。それは、何かを隠そうという意図があることを、暗に示してくれていた。
夜中になっても、なかなか寝付けず、さっきまでのことがぐるぐると、頭の中に渦を巻いていた。
真っ暗になった天井を眺めながら、隣で横になっている祖父に、声をかける。
「ねえ、ヒデジイ」
「…、なんだ、さっさと寝ろい」
「寝れるかっつーの。…、あれ、なに、幽霊とかそういうもの?」
「見れば分かんだろ」
「なんの、幽霊かな」
「ああ。ありゃたぶん、世の中のルールの幽霊だな」
「世の中のルール」
「真希子。俺ぁ、ろくでもない人間さ。人様殺しときながら、のうのうと今日まで生きてきちまった。そうじゃねえだろって、それじゃいけねえだろって、教えに来てくれたのさ、あいつがな」
急に剣呑な方向へ転化した祖父の話に、思わず布団を放り上げた。「殺した?」
「そうだ。あいつは見とったのさ。俺が突き飛ばした子が、車に吹っ飛ばされるとこをな。なんで今頃来たのかは知らん。俺みたいによ、あいつにも寿命が来たのと違うかあ」
やっぱり祖父には、何かしらの病が発現しているのではないか。そんな疑いもかけながら、自分の眼で見た現実とを突き合わせて、デタラメなことを口にしていると、笑い飛ばせないことにも思い当たっていた。
翌日の昼過ぎ。結局、一晩明ければいつもの調子でカクシャクとしていた祖父に別れを告げ、千葉の田舎をあとにした。
そうして、アパートへの帰り道、立ち止まった横断歩道の手間で、ふっと視線を上げたとき。思わず喉の奥から、うめき声みたいなものを洩らしてしまった。
闇夜に浮かぶ信号機の中心に、あの人が、直立不動の姿勢のままで立っているのが見えた。
数日経って、珍しく祖父のほうから電話があった。また他愛もない話をひとしきり重ねたあとで、私は言った。
「ヒデジイ。この前さ、アパート帰るときに、会ったよ。のっぺらぼう」
『ああ。どこにでも居らぁな、あいつは』
「そうだね、どこにでも立ってる。…、ねえ、ヒデジイ。人殺したってのは、本気で言ったこと?」
『なあ、…、真希子。ルールってのは、なんのためにあんだ。守るためにあるもんじゃねえよなあ。守らせるためにあるんだよ。守らせたときに、世の中ってのが成り立つんだよ。まあ、守らなかったらどうなるかなんて、どいつもこいつも、改まって考えてねえだろうがな。のっぺらぼうはな、それを伝えたかったわけだ。あいつには、何も出来ん。俺のところに来たって、ただ黙って見つめてくるだけよ。ただ、なんとなくは分かる。あいつは、祈ってるんだ。もう、俺みたいな奴が出ないようにって、それだけを願ってる』
「うん、だから、…。ヒデジイは、人殺したりなんか、してないよね」
『俺は、社会のルールを破った。そのせいで、人がひとり死んだ。それは、事実だ。…、ああ、また来やがった。じゃあな、真希子』
不思議と落ち着いた様子で通話を切った祖父の声を耳にしたのは、それが最後だった。
ある朝の、駅前の交差点。誰もが一秒でも時間を惜しむように、駆け足で横断歩道を渡っていく。赤信号で立ち止まった私の横から、横断歩道に飛び出しそうになった高校生ぐらいの女の子を、自分でも驚くような強い力で、引き留めた。
その子と私の、眼と鼻の先をかすめるように、右手から突っ込んできた自転車が、とんでもない速度で走り抜けていった。赤だぞ赤、馬鹿野郎! と叫ぶ男性の声が、あっという間に遠ざかっていく。
私に左腕をつかまれたままの女の子が、何があったのかも理解できずに、振り向いた。私は、ただ、そっと笑みをこぼしてから彼女の腕を放し、青信号に変わった横断歩道に向かって、何事もなかったかのような顔で踏み出した。
あの人が何処かで、そんな私を見つめている気がしていた。
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