太宰治『新樹の言葉』太宰作品感想19/31

10月が終わってしまう。太宰作品感想を10月中に書き終えて、11月はプラトンの作品感想でも始めようと思ったのに…。ちょっと無理そうです。

『新樹の言葉』の主人公は、乳母に育てられた。乳母はその後、結婚をして子を設けた。その乳母は割と早くに亡くなってしまうのだが、彼女の息子たちにはよく主人公のことについて語り聞かせており、彼ら兄弟は主人公にいつか会いたいと願っていた。そうして友人づてに主人公を見つけ、念願適い遂に出会うこととなる。

「いつか、お逢いしたいと思っていました。」
 いい青年だ。これは、いい青年だ。私には、ひとめ見て、それがわかるのである。からだがしびれるほどに、謂わば、私は、ばんざいであった。大歓喜。そんな言葉が、あたっている。くるしいほどの、歓喜である。

主人公の家での感動の出会い(主人公は、まだ幼かった乳母の息子に会ったことがあるため、厳密に言うと再開)とちょっとした会話を終え、一行はご飯を食べに外出する。乳母の息子が選んだのは、高そうな料亭であった。

「たかいぞ、きっと、この家は。」私は、どうも気がすすまないのである。大きい朱色の額がくに、きざみ込まれた望富閣という名前からして、ひどくものものしく、たかそうに思われた。

結論から書いてしまえば、この料亭はかつて、乳母の一家が住んでいた家であった。一家がこの家を出た後、立派な造りであったために、殆どそのままにお店として使われていたのである。

「だけど、いいねえ。乳兄弟って、いいものだねえ。血のつながりというものは、少し濃すぎて、べとついて、かなわないところがあるけれど、乳兄弟ってのは、乳のつながりだ。爽やかでいいね。ああ、きょうはよかった。」そんなこと言って、なんとかして当面の切せつなさから逃れたいと努めてみるのだが、なにせ、どうも、乳母のつるが、毎日せっせと針仕事していた、その同じ箇所にあぐらかいて坐って、酒をのんでいるのでは、うまく酔えよう道理が無かった。

授業参観日の親の前では、何だか気まずい。僕は現在、めちゃくちゃな大学生活を送っているが(留年は99%確定している)、親の前ではやはり少しかしこまってしまう。親の前で酔っぱらうなど、母親を悲しませそうで自分にはできない。

一夜明けて、主人公はいつの間にやら自宅の布団の上で寝転がっていた。酔い潰れ、兄弟にここまで連れてこられたのだ。主人公と乳母の息子を引き合わせた宅配屋のお兄さんが自宅へ来て、「これ、幸吉さん(乳母の息子)の妹さんから。」と、百合の花束を差し出される。

「なんですか、それは。」私は、その三、四輪の白い花を、ぼんやり眺めて、そうして大きいあくびが出た。
「ゆうべ、あなたが、そう言ったそうじゃないですか。なんにも世話なんか、要らない。部屋に飾る花が一つあれば、それでたくさんだって。」

酔い潰れながら、このような言葉を発せられる人間を即ち、詩人、文人と呼ぶべきであろう。太宰は、主人公をしがない作家として紹介している。『新樹の言葉』を書いた頃、彼も今ほど有名ではなかった。現在では、私のように地方で静かに暮らす学生でさえも、彼の名を知っている。酔い潰れた太宰も、詩的な言葉を連発していたに相違ない。


このお話の最後に、料亭は火事で全焼してしまう。主人公と乳母の息子たち兄弟もすぐさま駆けつけるも、とても消火できるような有様ではなかった。彼ら兄弟は、業火の前でも凛として美しかった。

「あ、裏二階のほうにも火がまわっちゃったらしいな。全焼ですね。」幸吉は、ひとりでそう呟いて、微笑した。たしかに、単純に、「微笑」であった。つくづく私は、この十年来、感傷に焼けただれてしまっている私自身の腹綿の愚かさを、恥ずかしく思った。叡智を忘れた私のきょうまでの盲目の激情を、醜悪にさえ感じた。

主人公は自らを恥じながら、早くに両親を亡くしながらも素直で懸命に生きる青年たちに心の中で「君たちは、幸福だ。大勝利だ。」と叫んだ。苦しむ若者にお金を与え、飯を食わすことばかりが「大人」の愛情ではないことを、本作最後の描写は教えてくれているような気がする。僕もそろそろ自分の幸せばかりを考えずに、もう少し愛情を持った「大人」にならねばなるまい。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,685件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?