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太宰治『小さいアルバム』 太宰の31作品感想 2/31

昨日から、太宰治の作品紹介を始めた。二日目の今日は、『小さいアルバム』をご紹介させて頂こう。

友人を家に招いて、卒業アルバムをめくったことのある方も少なくないだろう。思い出を振り返ることのできるアルバムは、格好の会話の種となる。本作で人を自宅に招いた主人公は、金も酒もなく歓迎できるものが何もないと嘆きながら、一つのアルバムを引っ張り出して来る。

kindle版の『小さいアルバム』には、このような解説が付されている。

「無頼派」「新戯作派」の破滅型作家を代表する昭和初期の小説家、太宰治の中期短編。初出は「新潮」[1942(昭和17)年]。自宅に訪ねて来た人にアルバムを見せて、自分の高校時代から過去を回想しながら12枚の写真について説明をするという小品。12枚のうち8枚は実際に確認できる写真であったり、「人間失格」などに通ずる写真を利用した表現手法がなされていたりと、太宰を考える上で興味深い作品として、近年再評価が進んでいる。

太宰の作品には、太宰自身が主人公のモデルとなっている作品が少なくない。『小さいアルバム』もその内の一つである。

作品内のアルバムの最初は、幼年の写真ではなく突然に高校時代のものから始まる。作品内の説明にもある通り、これは散財していた写真を太宰の嫁がコンパクトにまとめたものだったからだそうだ。学生時代の写真は最初の三枚のみで、残りは成人して後の写真であった。

自分が印象的だったのは、太宰の第一創作集の「晩年」が出版された頃の写真の話。本当に自分の最後の姿を写真に納めた気でいたらしく、当時の病の深さがうかがい知れる。しかし、太宰はその後も最後の自殺に至るまで、長く生きることになる。太宰自身が「晩年の肖像」と評したこの写真を、是非一度、機会があれば見てみたいと考えている。

この作品でも、太宰の自信に対する、もっと言えば自身の見かけに対する自身のなさが、そこかしこに滲み出ている。

これは或る友人の出版記念会の時の写真ですが、こんなにたくさんの顔が並んでいる中で、ずば抜けて一つ大きい顔があります。私の顔です。羽子板がずらりと並んでいて、その中で際立って大きいのを、三つになるお嬢さんが、あれほしい、あれ買って、とだだをこねて、店のあるじの答えて言うには、お嬢さん、あれはいけません、あれは看板です、という笑い話。こんなに顔が大きくなると、恋愛など、とても出来るものではありません。

ここまで来ると、流行の自己啓発本の2,3冊を太宰に読ませたくもなる。彼の顔を特別かっこいいと思ったことはないが、特別不細工とも僕は思わない。しかし考えてみれば、自己啓発本の対極に、太宰の小説はあるような気もしなくもない。

最近、市内に大正時代をモデルとした飲食店ができた。Twitterを見る限りにおいて、それなりに繁盛している様子だ。前時代的なものに折に触れて接し興じることは、現代人の人生の楽しみの一つであろうかと思う。例えばメールやLINEの時代であっても、お手紙を書くことは実に素敵なことだろう。紙媒体のアルバムも、きっとそうだ。

スマホの写真フォルダをただ見返すのも良いが、アルバムのように綺麗にまとめてみるのも良いかもしれない。最近のスマホアプリでは、スマホ上でのアルバム作りに特化したものもあるらしい。しかしスマホ内に写真があると思って安心していると、なかなかアルバムとしてまとめる気にもなれない。

今日も今日とて、まとまりのない文章になってしまった。太宰の人生の一部を垣間見ることのできるこの作品、太宰ファンにとっては外すことのできない一作であることは間違いない。

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