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痛い記憶

洗い物をしていると、子どもの頃母からシンクまで掃除しなかったことを怒られたことを思い出す。特に嫌な気持ちになることもなく、淡々とシンクを掃除する。シンクは大体清潔に保たれているのは母の教えのお陰だとむしろ感謝していた。
 
今朝も洗い物をしていてまたそのことを思い出した。でも今朝は「あれ?」っと何か引っ掛かる気分があり、その記憶を思い出してみた。
 
それは私が小学4年生の夏だった。子宮に癌になりかけの細胞が見つかり、母は子宮全摘手術のために山の上にある大学病院に1ヶ月ほど入院することになった。生まれて初めての母の長期不在である。父もかなり頑張ってくれたがやはり仕事で忙しく、食事の支度や掃除、洗濯、見舞いなどを長女の私がかなり頑張ってやった記憶がある。
 
今思うとそれまであまり手伝いらしい手伝いもしなかった私が、食事を作ったり掃除をしたり、妹の世話をしたりというのは大変だったと思う。でも「良い子」の私は健気に頑張った。
 
ある日私は妹と二人だけで電車とバスに乗りついで母の見舞いに向かった。いつもは父と車で行くのだが、その時は届け物があったのか二人だけで行くことになった。行き方は教えてもらっていたのだが、「○○大学病院」と「○○大学病院下」と二つのバス停があることを知らず、一つ手前の「大学病院下」で降りてしまった。まだ開発の進んでいなかった山の中に降り立ち途方に暮れた。周りには鬱蒼とした森が広がり病院が全く見えない。道を聞くにも誰も歩いていないので、妹の手を取って心細い気持ちで必死に坂道を登った記憶がある。
 
なんとか病院にたどり着いた私たちは母の病室に向かった。その途中妹に、「母を心配させたくないから、道に迷ったことは言わないでおこうね」と言った。今思うと本当は道に迷った自分を恥じて言ったことだった。母は私に完璧な娘を求めていたから。
 
そして1ヶ月後に母は帰ってきた。私は母から労いの言葉をかけてもらうことを期待していた。母の帰る前に私なりに念入りに掃除をして、食事も用意していたのだ。ところが母は開口一番、「台所の掃除はシンクまでするものでしょ!」とひどく怒ったのだ。
 
今朝になって初めてわかった。これはなんでもない記憶ではなかった。痛い、痛すぎる記憶だったのだ。怒られたということ自体よりも、その背後にある「私は母に愛されていない」「それは私に問題があるからだ」というメッセージが私を打ちのめした。(そのメッセージはそれまでも、またそれからも常に送られていた。)
 
まだ30代で子宮を取ることになった母の喪失感は想像もできない。だから私に当たってしまったとしたらそれは許せる。でも私が母の立場だったら、後で娘に「ごめんね、お母さん言いすぎた。1ヶ月、本当にありがとう」と言ったのではないか。
 
そして半世紀近く経って、あれは私がダメだという記憶でななく、母に問題があったことを示す記憶だったことを理解した。母は私に厳しく、時に意地が悪かったが、それは母の生い立ちや義母との関係からだと理解もするし同情もしてきた。必死に私たちを育ててくれたと感謝もしている。だからと言って、子どもの私が傷付かなかったわけではないのだ。
 
だから今の私がそのときの私に声をかけたい。「この1ヶ月、よく頑張ったね。お母さんに怒られて悲しいね。でもそれはあなたがダメなんではなくて、健気に頑張ったあなたの気持ちが寄り添えないお母さんの問題なんだよ。だからあなたに悪くないよ。」9歳の私は信じられない顔をして私を見た。でもそこには少しの安堵と希望も見えた。

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