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村上春樹『職業としての小説家』にて(世代を超えて)

今回の記事は、過去の記事「村上春樹『職業としての小説家』にて」の追記です。村上春樹さんは、小説家ではあるけれど・・・。

彼は、五次元意識の自由を、つかめていそうだな。

 これはあくまで僕の個人的な意見ですが、もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」というよりはむしろ「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてみるといいかもしれません。「自分が何を求めているか?」という問題を正面からまっすぐ追求していくと、話は避けがたく重くなります。そして多くの場合、話が重くなればなるほど自由さは遠のき、フットワークが鈍くなります。フットワークが鈍くなれば、文章はその勢いを失っていきます。勢いのない文章は人を――あるいは自分自身をも――惹きつけることができません。
 それに比べると「何かを求めていない自分」というのは蝶のように軽く、ふわふわと自由なものです。手を開いて、その蝶を自由に飛ばせてやればいいのです。そうすれば文章ものびのびしてきます。考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、にもかかわらず、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。

――pp.112-113 第四回「オリジナリティーについて」

彼のハイヤーセルフも(ちょっとは?)役に立っている、という感覚。

 僕が嬉しく感じることのひとつは、僕の書く小説がいろんな年代の人に読まれているらしいということです。「我が家では三世代にわたって村上さんの本を読んでいます」というような手紙をしばしばいただきます。おばあさんが読んで(彼女は僕のかつての「若い読者」であったかもしれません)、お母さんが読んで、息子が読んで、その妹が読んで……みたいなことがどうやらあちこちで起こっているみたいです。そういう話を聞くと、僕としてはすごく明るい気持ちになります。一冊の本がひとつの屋根の下で何人もに回し読みされるというのは、その本が活かされているということです。もちろん五人が一冊ずつ本を買ってくれた方が売り上げが伸びて、出版社としてはありがたいのでしょうが、著者としては一冊の本を五人で大事に読んでもらった方が正直言ってずっと嬉しいのです。
 そうかと思うと、かつての同級生から電話がかかってきて、「うちの高校生の息子がおまえの本を全部読んでいてさ、よく息子とその本について話をするんだ。普段は親子でほとんど話なんてしないんだけど、おまえの本のことになると、けっこうよくしゃべるんだよ」みたいなことを言われた経験もあります。声の調子がなんとなく嬉しそうです。そうか、僕の本もちょっとは世の中の役に立っているんだなと思います。少なくとも親子間のコミュニケーションの助けになっているわけで、これはなかなか馬鹿にならない功績ではないかと思います。僕には子供がいませんが、他の人の子供たちが僕の書くものを喜んで読んでくれるとしたら、そしてそこに共感のようなものが生まれるとしたら、僕もささやかではあるけれど、次の世代に何かしらを残せたことになるわけですから。

――pp.282-283 第十回「誰のために書くのか?」

私のハイヤーセルフは、今ごろどこで何をしているのやら・・・。

以上、言語学的制約から自由になるために。