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村上春樹『職業としての小説家』にて

日本人ならではの「個人の確立」はどうあるべきか。

村上春樹さんは、「個人の資格」で楽しみながら書いているようだが、その「個人の資格」とはどういうものだろうか。たとえば、夏目漱石『私の個人主義』みたいな書物を、書いて頂けないだろうか。

 小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで降りて行かなくてはなりません。大きなビルディングを建てようとすれば、基礎の地下部分も深く掘り下げなくてはならないのと同じことです。また密な物語を語ろうとすればするほど、その地下の暗闇はますます重く分厚いものになります。
 作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものを――つまり小説にとって必要な養分です――見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、かたちと意味を持つものに転換していきます。その暗闇の中には、ときには危険なものごとが満ちています。そこに生息するものは往々にして、様々な形象をとって人を惑わせようとします。また道標もなく地図もありません。迷路のようになっている箇所もあります。地下の洞窟と同じです。油断していると道に迷ってしまいます。そのまま地上に戻れなくなってしまうかもしれません。その闇の中では集合的無意識と個人的無意識とが入り交じっています。太古と現代が入り交じっています。僕らはそれを腑分けすることなく持ち帰るわけですが、ある場合にはそのパッケージは危険な結果を生みかねません。
 そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしてもフィジカルな強さが必要になります。どの程度必要なのか、数値では示せませんが、少なくとも強くないよりは、強い方がずっといいはずです。そしてその強さとは、他人と比較してどうこうという強さではなく、自分にとって「必要なだけ」の強さのことです。僕は小説を日々書き続けることを通じて、そのことを少しずつ実感し、理解してきました。心はできるだけ強靱でなくてはならないし、長い期間にわたってその心の強靱さを維持するためには、その容れ物である体力を増強し、管理維持することが不可欠になります。

――pp.193-194 第七回「どこまでも個人的なフィジカルな営み」

さて、私は、睡眠中に見る霊的な夢の世界(四次元以上の世界)で発見するアイデアを、現実に持ち帰ろうと何度も試しています。

しかし、朝、目覚めるということは、海に飛び込むようなものです。

目覚めると、手に持っているはずのアイデアがありません。

見回すと、アイデアの青写真が、海水面に貼り付き、波打っているのです。そこより下に、現実に、持ち込むことができない。

これは、言語化する資格が、私にはまだないということか。

以上、言語学的制約から自由になるために。