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中沢新一『精霊の王』にて

中世日本の芸能者は、「後戸うしろどの神(宿神しゃぐじ)」を信仰していたようです。

 宇宙以前・空間以前からすでにあったコーラ Chola(場所)とでも言おうか、物質的諸力の影響を受け付けないシールド空間とでも言おうか、これはきわめて難解な構造をした力動的空間であって、猿楽者たちはそれを直観によってつかみとろうとした。とにかく猿楽者たちがその芸能をとおして発達させた「おきな」の概念は、いまだに汲み尽くされない深い井戸のような印象を、私たちにあたえるのである。

――p.33 第一章「謎の宿神」

この著者は、芸能者の思考を哲学的思考の中によみがえらせます。

 西田幾多郎は『場所』という文章のはじめに、こう書いた。「私がこれから考えようとしているのは、プラトンのコーラにたしかに関わりはあるが、私はプラトンと同じことをするつもりはない」。この論文で、彼は「無の場所」という新しい概念を打ち立てようとしたが、そのさいに「存在の母なる受容器」と呼ばれるコーラの概念から、じつはきわめて大きな影響を受けているのだ。
 西田の思考は、ファルスによって支配されないロゴスの働きを求めていた。父性的なファルスが「主語面-述語面」からなる何かの命題を語るとき、そこにはつねに語り残されるものが発生する。そこで思考はその語り残されたものの跡を追って、述語面の奥底へと分け入っていくことになろう。そして述語面の底にたどりついて、そこから超越を果たすと、新しい平面があらわれてくることになる。その平面でもまたファルスは「主語面-術語面」からなる命題を語り出すのだが、西田的思考の欲望はここでもつぎなる「術語面への超越」をおこなって、さらに深い平面を開いていこうとする。
 こうしてロゴスは「術語面への超越」を繰り返した果てに、いつしか「無の場所」にたどりつくのである。「無の場所」はすべての存在の術語面として、いっさいのものを包摂する受容器となる。「無の場所」ではもはやファルスが真理を語り出すのではない。名付けることもできず、言表することもできない、優しい光の充満するその「場所」で、同一性に捕獲されることから逃れ続ける差異の群(絶対矛盾)が、たがいを照らし出し合うことのうちから意味が発生する、永遠のプロセスが繰り広げられていく……。
 西田幾多郎はここでたしかに「プラトンと同じこと」はしていない。しかし、プラトンと別のものを対象としているのではない。彼が語りたいと欲望しているのも、やはりコーラなのだ。それをプラトンとは違う流儀で論理的に語ることによって、西田はこの列島に土着してきた一つの思考様式の本質を、明確な形で取り出そうと試みた。「場所の論理」は「コーラの思考」と深層でつながっている。そして、「コーラの思考」はと言えば、同じ野生の思考の仲間として、私たちの「宿神的思考」とは兄弟の関係にある。するとこうなる。西田哲学の「場所の論理」は「宿神的思考」の異文ヴァリエーションの一つにほかならない。

――pp.261-263 第十章「多神教的テクノロジー」

かつての芸能者は、そこで、精霊の活動を感じていたようだが……。

以上、言語学的制約から自由になるために。