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西田幾多郎『善の研究』のスピリチュアルな読み方

日本初の哲学書『善の研究』を理解するためには、無料の青空文庫で読むよりも、講談社学術文庫の『善の研究』を読んだ方がわかりやすい。

それでも、途中で挫折する人が多いと思います。

この書物の第一編「純粋経験」には理解の壁があります。

おそらく、この著者は、瞑想中に視座を得て、「純粋経験」を体験しています。「純粋経験」は論理的に考え出した結論ではないのです。著者は、体験に基づいて、物事の全体像を哲学的に説明しており、その一方で、読者は、言語学的制約に阻まれて、著者と同じような体験ができずにいるのです。

そもそも、誰もが霊体験をしています。しかし、ほとんどの人は、霊体験の言語化がうまくできないため、言語化を諦めてしまいます。言語化したところで、周りの人たちから変な目で見られますし、社会は霊言を後押ししないのですから、むしろ、霊体験は無かったことにした方が楽なのです。

ところが、うまく言語化する人が現れると、その人の周りに信者が集まります。信者たちは、その人を教祖に祭りあげて、有難い言葉を理解したつもりになり、追体験したつもりになります。信者たちは、自身の霊体験によって裏づけられない教祖の霊言を背負い、来世に引きずるつもりでしょうか。

つまり、何が言いたいのかというと、「純粋経験」を追体験してからでなければ、第一編を理解することはできないということです。

たとえ、著者と同じような「それ」を体験したとしても、読者の個性は、「純粋経験」とは異なる特徴を言語化したくなるに違いありません。

そこで、『善の研究』の読み方についてですが・・・。

まずは、第二編「実在」を読んで、哲学用語の語彙を増やします。
次に、第三編「善」を読んで、哲学用語の使い方を参考にします。
しかる後に、第一編「純粋経験」で、言語化の難しさを読んでください。

スピリチュアルな一元論的見方が埋もれています。

「純粋経験」を追体験したければ、第一編よりも第三編を深読みした方が近道です。著者は、人格形成を善としています。地道な人格形成を重ねれば、生存中に、よく似た追体験ができるかもしれません。

第四編「宗教」については、別の機会に、記事にします。

以上、言語学的制約から自由になるために。

この記事には以下の追記があります。