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西田幾多郎『善の研究』の男性性と女性性

今回の記事は、過去の記事「西田幾多郎『善の研究』のスピリチュアルな読み方」の追記です。第一編の第二章「思惟」を取り出します。

西洋哲学は矛盾を避ける傾向にあります。それが正しいのではありません。ただ、男性性(矛)と女性性(盾)の和合ができずにいるのです。

ところが、西田幾多郎は『善の研究』で矛盾を許しています。

元来、意識は体系的に自己を発展させ完成させていくものである。では、どのように自らを発展させ完成させていくのであろうか。この点に関する西田の考え方はきわめて弁証法的である。すなわち、意識は自らの内に矛盾・対立を含んでおり、またこの矛盾・対立が原動力になって、より大なる統一へと発展していくというのである。これを西田は次のように説明する。
意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然の状態である、しかもその発展の行路において種々なる体系の矛盾衝突が起こってくる、反省的思惟はこの場合に現れるのである。しかし、一面より見てかくの如く矛盾衝突するものも、他面より見ればただちに一層大なる体系的発展の端緒である。換言すれば、大なる統一の未完の状態ともいうべきものである」。
だとすれば、思惟は意識体系の発展完成の過程における一契機としての矛盾衝突の段階に生ずるものであり、しかもそれは見方を変えれば、より大なる発展への始まりであり、より大なる統一の未完の状態であるということになる。

――pp.80-81解説

これから28年後に発表された『絶対矛盾的自己同一』は、男性の内にも女性性があり、女性の内にも男性性があることを、許せる概念です。

さて、ウィリアム・ジェームズが「純粋経験」を西田幾多郎よりも前から説いています。しかし、その考え方は、両者で逆方向です。

ジェームズにおいては、経験はその本性上、個人的であったが、西田においては、経験は個人的区別を超えるものであり、したがってまた空間や時間を超えるものであった。

――p.84解説

その考え方の違いは、言語意識によって生じる、と私は思います。

日本語は状況から主体へと流れる意識を優先しますが、
英語は主体から状況へと流れる意識を優先します。

だから、ジェームズにとっては、個人的で特殊的なものから普遍的で一般的なものへと考えた方が、言語化しやすかったのではないでしょうか。

以上、言語学的制約から自由になるために。