今回の記事は、過去の記事「西田幾多郎『善の研究』のスピリチュアルな読み方」の追記です。第一編の第四章「知的直観」を取り出します。
西田幾多郎の一元論的見方で考えると、自然現象のカオスをカオスのままに直覚する能力は、誰もが持っています。その直覚に、身体的な制約がかかると知覚になり、精神的な制約がかかると知的直観になります。
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ところで、高次元の視座を活性化したければ、自身の内側で、矛盾を超えなければなりません。しかし、それができない古代人は、生き延びるために、自身の外側で、矛盾を超えるはずの玉座を設けました。
そこに、内側の能力と外側の権力を擁立する、二元論的社会があります。
現代社会では、神秘的な霊体験を恐れたり避けたりする哲学者が、二元論的見方を通して、西田哲学の様子を、次のように、うかがいます。
玉座に腰かける西田哲学は、君主か、神か、捨て駒か。
彼らにとって、西田哲学は、二元論の一方にだけ配慮する不十分な唯識論か唯物論にすぎません。そう考えるのは、彼ら自身なのだが・・・。
以上、言語学的制約から自由になるために。