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西田幾多郎『善の研究』の深遠な知覚

今回の記事は、過去の記事「西田幾多郎『善の研究』のスピリチュアルな読み方」の追記です。第一編の第四章「知的直観」を取り出します。

西田幾多郎の一元論的見方で考えると、自然現象のカオスをカオスのままに直覚する能力は、誰もが持っています。その直覚に、身体的な制約がかかると知覚になり、精神的な制約がかかると知的直観になります。

知的直観ということはある人には一種特別の神秘的能力のように思われ、またある人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかし、余はこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる。普通の知覚であっても、前にいったように、決して単純ではない、必ず構成的である、理想的要素を含んでいる。余が現在に見ている物は現在のままを見ているのではない、過去の経験の力によりて説明的に見ているのである。この理想的要素は単に外より加えられた連想というようなものではなく、知覚そのものを構成する要素となっている、知覚そのものがこれによりて変化せられるのである。この直覚の根柢こんていに潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる。

――pp.110-111本文

通常の知覚と知的直観との間に本質的な区別はないとすれば、一般に知覚が受動的と考えられているように、知的直観も受動的と考えられるかもしれない。知覚も直観もその作用原因は外界にあると考えられるからである。しかし、既述したように、すべての意識現象は能動的であり、構成的であり、統一的である。したがってまた、知覚作用も能動的であり、構成的であり、統一的である。ましてや最深の知覚作用である知的直観は最も能動的で、最も構成的で、最も統一的である。否、むしろそれは宇宙の根源的な統一力そのものであると考えられている。

――pp.121-122解説

ところで、高次元の視座を活性化したければ、自身の内側で、矛盾を超えなければなりません。しかし、それができない古代人は、生き延びるために、自身の外側で、矛盾を超えるはずの玉座を設けました。

そこに、内側の能力と外側の権力を擁立する、二元論的社会があります。

現代社会では、神秘的な霊体験を恐れたり避けたりする哲学者が、二元論的見方を通して、西田哲学の様子を、次のように、うかがいます。

玉座に腰かける西田哲学は、君主か、神か、捨て駒か。

彼らにとって、西田哲学は、二元論の一方にだけ配慮する不十分な唯識論か唯物論にすぎません。そう考えるのは、彼ら自身なのだが・・・。

以上、言語学的制約から自由になるために。