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西田幾多郎『善の研究』のハイヤーセルフ

今回の記事は、過去の記事「西田幾多郎『善の研究』のスピリチュアルな読み方」の追記です。第一編の第一章「純粋経験」を取り出します。

「真の純粋経験はなんらの意味もない、事実そのままの現在意識あるのみである」 真の純粋経験は何らの価値判断も加わっていない直接経験の状態を指しているから、「なんらの意味もない、事実そのままの現在意識」と表現されている。また、ここで「現在意識」というのは、ジェームスの「意識の流れ」やベルクソンの「純粋持続」のように、反省的思惟によって中断されていない持続的で統一的な意識を指している。

――p.32注釈

どのような意識であっても、それが厳密な統一の状態にある時はつねに純粋経験であり、単なる事実であり、現在意識であるが、この統一が破れた時、すなわち他のものとの関係に入っていった時、そこに意味や判断が生ずるのである。直接的経験に対して、すぐ過去の意識が働きかけ、それが現在の意識の一部と結合し、また他の一部と衝突する。こうして意識の統一が破られる。意味とか判断というのは、いわば意識のこのような不統一の状態をいうのである。

――p.55解説

その「現在意識」を、スピリチュアル用語で表すと、「今ここをあるがままに受けとる意識」ということになります。言語化は、難しいですね。

さらに、西田幾多郎は、ハイヤーセルフに迫っています。

西田は個々の経験の背後にある普遍的意識ないし統一力を「或無意識的統一力」「統一的或者」「或統一者」「潜在的或者」「潜在的統一者」「潜勢力」「潜勢的一者」「普遍的或者」等、種々の名称で呼んでいるが、『自覚に於ける直観と反省』(大正六年)においては「自覚」という用語で統一されるようになる。

――p.41注釈

その「統一力」や「自覚」が、ハイヤーセルフなのです。

西田は、われわれの知覚作用の背後には或無意識的統一力(統一的或者)が働いていて、われわれの注意はこの統一力によって導かれる、と考えている。このように、個々の純粋経験の背後に普遍的な統一力の作用を考えるのが西田の純粋経験説の大きな特徴である。

――p.53解説

ハイヤーセルフの働きに気づけば気づくほど、出来事の必然性に気づけるようになる。そういうことも、この『善の研究』から読み取れます。

以上、言語学的制約から自由になるために。