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言葉と霊魂のかかわり

言葉に対して、価値を与える言語観と、意味を与える言語感がある。今回の記事では、「観」と「感」の違いを強調すべく、「感」で彷徨います。

言葉の意味を偶成するところ(マトリクス)では、霊と魂と体の三つが作用しています。外側の限界を知る「霊」が名詞のあり方を誘導し、内側の限界を知る「魂」が動詞のあり方を誘導し、いまここを体験する「体」が形容詞のあり方を誘導します。これは、理屈ではなく感覚でつかむことです。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

さて、霊魂の存在を否定する言語学者の場合、生命のカオスを知覚する体だけをたよりにして言葉の起源を探ることになります。すると、当然、名詞と動詞と形容詞の起こりは、ハプニングでしかなくなります。

カオスに方向性を与えるのは霊魂なのです。

この気づきに基づいて、たとえば、次の記述に出会うなら、

アイヌ語では動詞と形容詞との区別がない。
朝鮮語には動詞と形容詞とのあいだに隔たりがほとんど感じられない。

―― 藤井貞和『日本文法体系』(ちくま新書)

それを事実として受け流すだけでなく、もっと深く察することができます。つまり、アイヌ語と朝鮮語は日本語よりも魂と体が癒着しているのです。

霊魂と体が癒着している原始部族では、生き延びるための地縁と血縁に基づく人間関係を重視しており、個人がありません。そこで使う尊敬語は、相手との上下関係を確かめるためにあり、個人を尊敬していないのです。そんな世間では、出来事を体で知覚すると、一つの形容詞が誘導されるとともに、それに癒着する名詞と動詞の成分まで強制されます。

ところが、世間の癒着がほどけると、各個人は、独自の霊魂に誘導されて、形容詞とは別の名詞と動詞を自由に選ぶことができるようになります。しかし、そのようにして各個人が勝手に振る舞うようになれば、世間の秩序が乱れます。そこで、部族を導くシャーマンが癒着を強化するかどうか……。

西洋人は、個人を確立した上で、平等な社会を築こうとしています。そこにある平等「観」は、そもそも個人の確立を許さない世間の平等「感」とは、異なるのてす。日本人は、いま、「観」と「感」のあいだにいます。

日本人は、社会と世間の架け橋となる個人を確立できるだろうか。

以上、言語学的制約から自由になるために。