見出し画像

エドワード・サピア『言語』にて

表現形式としての言語を研究するサピアは、言語と人種と文化の結びつきが必然的なものではないことを、容易に論証しています。

しかし、確かに、と用心深い読者は異議を唱えるだろう。言語と文化のあいだには、また、言語と、少なくとも「気質」と呼ばれる、あの人種のつかみどころのない側面とのあいだには、なんらかの関係があるにちがいない。ある文化を形成した特定の精神の集合的特質が、特定の言語形態の発達を促したものとはまったく異なるなどということは、考えられないのではないか、と。この問いは、社会心理学上のもっともむずかしい問題の核心に触れるものである。この問いに対して明快に答えられるほど、歴史的過程の本質や、言語と文化の偏流に含まれる究極の心理的要因を十分に解明しえたひとが、これまでにいたかどうか疑わしい。

――p.375第10章「言語と人種と文化」

 もっとも一般受けするサピアの言語観は、第11章にあります。

 言語は、われわれにとって、思想伝達の体系以上のものだ。言語は、われわれの精神がまとっている目に見えない衣装であって、精神のすべての象徴的表現に予定された形式をあたえる。その表現がなみなみならぬ意義を有する場合、それは文学と呼ばれる。芸術はきわめて個人的な表現なので、芸術が、なんであれ予定された形式に束縛されるのを、われわれは好まない。個性的な表現の可能性は無限であり、言語は、とりわけ、媒体のうちでもっとも流動性の高いものだ。けれども、この自由さには若干の制限、若干の媒体からの抵抗があるにちがいない。偉大な芸術には、絶対の自由の幻想がある。素材――絵の具、文字、大理石、ピアノの音調、その他なんであれ――によって課される形式的な制約は、知覚されない。まるで、芸術家の最大限度の形式利用と、素材に本来可能な最大限度とのあいだには、腕をふるう無限の余地があるかのようだ。
 芸術家は、素材のまぬがれがたい圧制に直観的に屈服し、その野蛮な性質をおのれの着想に楽々と融合させてきた。その素材が「消える」のだ。それは、まさに、芸術家の着想のなかに、何か別の素材が存在することを示すものが何ひとつないからである。当分のあいだ、芸術家は、そして芸術家とともにわれわれは、異質な雰囲気の存在することなどうち忘れて、あたかも水中を泳ぐ魚のように、芸術の媒体のなかを遊泳する。けれども、芸術家がおのれの媒体の掟に違反するやいなや、われわれは、はっとして、服従するべき媒体があることに気づくのである。

――pp.381-382第11章「言語と文学」

その気づきは、自分に気がつく瞬間でもある。

言語は、それ自体、集合的な表現芸術であり、何千何万という個人の直観の要約である。個人は、集合的な創造のなかに埋没してしまうけれども、個人の個性的表現は、人間精神の集合的作品全体に内在する順応性や柔軟性のなかに、なにがしかの痕跡をとどめている。

――p.398第11章「言語と文学」

以上、言語学的制約から自由になるために。