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動詞が先か・名詞が先か

言語学では、名詞が先、ということになっています。

 中動態や能動態といった態の概念は、言うまでもなく動詞に結びついている。動詞は今日われわれの知るインド=ヨーロッパ諸語において、文の中枢を担うものに見える。つまり、動詞がない言語を想像することは難しい。
しかし、実は動詞は言語のなかにずいぶんと遅れて生じてきた要素であることが分かっている。フランスの古典学者ジャン・コラールは、その著書『ラテン文法』のなかで次のように述べている。
「動詞はわれわれには文の中枢的要素であるようにみえるが、今日われわれが知っているような形でのそれは、実は文法範疇のなかで遅れて生じたものなのである。〈動詞的〉構文以前においては、〈名詞的〉構文があったのであり、そのかなめは動詞ではなくて動作名詞であった」。

――國分功一郎『中動態の世界』(医学書院)pp.164-165

また、その気づきを後押しし得る独創的な実験が、アメリカの生理学者であり医師でもあるベンジャミン・リベットによってなされています。

 リベットは、時計回りに光の点が回転する時計のような点滅型モニターを作った。そして、脳に運動準備電位を測るための電極を取り付けた人に、モニターの前に静かに座ってもらった。その人には、心を落ち着けてもらい、「指を動かしたい」という気持ちになったときに、指を動かしてもらった。さらに、「指を動かしたい」と自発的に「意図」した瞬間に、光点の位置がどこにあったかを尋ねた。つまり、「意識」が「動かそう!」と「意図」する指令と、「無意識」に指の筋肉を動かそうとする準備指令のタイミングを比べたのだ。
 さて、読者の皆さんは、どちらが先だとお思いだろうか。「意識」と「無意識」と。
 そりゃあ、決まっている。人が指を「動かそう!」と「意識」するのが最初で、その指令が随意運動野に伝わるから、「無意識」のスイッチが入り、運動準備電位が生じ、最後に指が動くんじゃないか。この順番に決まっている。こうお思いだろうか。そう思うのが、(私も含めて)凡人の常識だろう。
 ところが、結果は衝撃的だった。なんと、「無意識」下の運動準備電位が生じた時刻は、「意識」が「意図」した時刻よりも三五〇ミリ秒(0.35秒)早く、実際に指が動いたのは、「意図」した時刻の二〇〇ミリ秒(0.2秒)後だったのだ。
 指の動くのが「意図」より遅いというのは、もちろん、予想通りだ。しかし、運動準備電位が「意図」よりも三五〇ミリ秒早いというのは不思議だ。ところが、何度測り直してみても、運動準備電位が発生した時刻は、人が「意識」的に運動を「意図」した時刻よりも数百ミリ秒ほど早かった。数百ミリ秒というと、零コンマ何秒。人が全力で走ると、二、三メートルも進める、けっこう長い時間だ。つまり、奇妙なようだが、心が「動かそう!」という「意図」を「意識」するよりも前に、「無意識」のスイッチが入り、脳内の活動が始まっているというのだ。
 心が「動かそう!」と思うのがすべての始まりなのではなく、それよりも前に、無意識下の脳で、指を動かすための準備が始められているというのだ。

――前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(ちくま文庫)pp.77-78

無意識 ① ピカピカ
意識 ② ヒカリ
動作 ③ ヒカル

日本語の場合、オノマトペの「ピカピカ」が自然現象に触れており、それを表す名詞の「ヒカリ」から、動詞の「ヒカル」が派生しています。

ところで、引用元の『脳はなぜ「心」を作ったのか』は、スピリチュアリストを満足させる内容ではありません。その著者が想定する「心」は、脳内で反響する、スピードの遅い意識ですし、無意識の働きを、「小びとたち」のいたずらであるかのように記述するところが散見されます。

以上、言語学的制約から自由になるために。