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國分功一郎『中動態の世界』にて

その「中動態の世界」とは、英語の動詞に能動態と受動態が確立される前の世界です。動詞を使うたびに「する」と「される」を区別して、個人の意志と責任を明確にする文法は、歴史的には新しい文法でした。

 中動態とはかつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく存在していた態である。「インド=ヨーロッパ語」とは、現在の英独仏露語などのもとになった諸言語のグループ(語族)のことで、これに属する諸言語は、古代――確認されている限りでは少なくとも八〇〇〇年以上前の時代――より、インドからヨーロッパにかけての広い範囲で用いられてきた。
 それらの言語がもつ動詞体系には、長きにわたり、能動態と受動態の対立は存在しなかった。その代わりに存在していたのは、能動態と中動態の対立である。われわれは能動態と受動態を対立させる考えに慣れきってしまっているためにこれを不思議なことと思ってしまうが、受動態はずいぶんと後になってから、中動態の派生形として発展してきたものであることが比較言語学によって、すでに明らかになっている。――第2章p.41

    出来事が主、行為者が従だった時代
 われわれは一万年以上に及ぶかもしれぬ長大な歴史を俯瞰した。
 では、「共通基語」の時代よりも前の状態から始まるインド=ヨーロッパ語の変化の歴史を、以上のように動詞および態の変化という観点から眺めたとき、そこに見出される方向性とは何か? この途方もない問いにあえて答えてみよう。
 この変化の歴史の一側面を、出来事を描写する言語から、行為者を確定する言語への移行の歴史として描き出せるように思われる。
 名詞的構文の時代、動作は単なる出来事として描かれた。そこから生まれた動詞も、当初は非人称形態にあり、動作の行為者ではなくて出来事そのものを記述していた。
 だが動詞は後に人称を獲得し、それによって、動詞が示す行為や状態を主語に結びつける発想の基礎がそこに生まれる。とはいえ、動詞がその後に態という形態を獲得した後も、動詞と行為者との関係については、動作プロセスの内側に行為者がいるのか、それともその外側にいるのかが問われるに留まっていた。そこにあったのは能動と中動の区分だったからだ。
 だがその後、動詞はより強い意味で行為を行為者に結びつけるようになる。能動と受動の区別によって、行為者が自分でやったのかどうかが問われるようになるからだ。――第6章pp.175-176

    出来事を私有化する言語へ
 行為者を確定するとはどういうことだろうか?
 私の身体のもとで、「歩く」という過程が実現されるためには、実に多くの要素が協働しなければならないのだった。どの要素が欠けても「歩く」という過程は実現されない。この過程には実に多く要素が参与している。
 ところが、能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属するものとして記述する。やや大袈裟に、出来事を私有化すると言ってもよい。「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ「この行為は誰のものか?」を問う。
 ならば次のように言えよう。中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだ、と。出来事を描写する言語から行為を行為者へと帰属させる言語への移行――そのような流れを一つの大きな変化の歴史として考えてみることができる。――第6章p.176

英語は、中動態を失い、出来事の記述が難しくなってしまったのだ。

以上、言語学的制約から自由になるために。