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鏡の中の左右の話 :「上下反転はしていないのに、何故左右反転するのだろう?」という疑問への回答

「鏡に映る自分は上下反転をしていないのに、何故左右反転するのだろう?」と不思議に思う人も多いでしょう。リンゴを右手で持った自分の鏡像は、リンゴを左手に持っています。でも自分の頭と足の上下は鏡の中で入れ替わっていません。科学ラジオ番組等で子供たちから出る有名な質問でもあります。

この質問に答えるには、まず鏡とは関係なく、「左右」という言葉をしっかりと定めておかないといけません。例えば左手にリンゴを持った太郎さんに向き合って立つ花子さんと次郎さんがいると考えてみましょう。鏡はまだ出てきません。花子さんは太郎さんにとっての左右の意味で、「太郎さんは左手にリンゴを持っている」と答えます。でも次郎さんは、次郎さん自身にとっての左右の意味で、「太郎さんは右手にリンゴを持っている」と言ってしまうこともあり得ます。これは単に言葉の問題ですので、これから鏡の問題を一緒に考えようとする3人は、最初にきちんと「左右」という言葉の使い方を決めておかなくてはいけません。こういう言葉の使い方を甘くしておくと、無用な混乱が起きてしまいます。「自分の右」という言葉ですら、関西地域では「あなたの右」という意味で使う人もいます。そういうことを避けて、科学的に鏡の問題を考える必要があるのです。

物理学における左右は、軸性量と呼ばれる特別な値に対応しています。頭と足を上下と決めたり、体の正面と背中を前後と決める場合と、左右を決める場合は、その性質が異なります。体の背中から正面への方向をデカルト座標のx軸正方向、足元から頭の方向をy軸正方向とした場合の、z軸正方向を右と定義しています。左は右の反対方向です。左右が上下や前後と違うのは、その上下や前後という2つの方向を最初に決めた後でないと、その左右が決まらないという点です。これが軸性量の特徴です。「立った姿勢で北を向いたときの東の方向が、右である」という言い方でも、頭が上、足が下という立った姿勢での「上下」と、北に自分の体の正面を向けることで決まる「前後」という2つの方向を定めた後で、この「右」を決めています。たとえば宇宙空間を漂う宇宙飛行士を考えてみましょう。宇宙空間自体には、上下前後左右の区別がありません。でも飛行士にとっては、頭が上、足が下、腹が前、背中が後、そして上で述べた方法で、この上下前後に対応した左右をはっきりと決められます。
 
鏡の前の本体とその鏡像の左右を正確に論じるためには、このように上下、前後、左右という用語を予め決めておくことは必須です。このように左右の定義をきちんとしてから、表面を境に前後を入れ替える鏡の機能を考えれば、自分の鏡像の左右が入れ替わるのは当たり前になります。鏡は鏡面を境にしてその垂直方向の「前後」の反転を鏡像に起こさせる装置です。そして「左右」が入れ替わるのは、その前後反転の結果です。たとえ人間の体が左右対称でなくても、問題ありません。自分の上下は鏡面に対して平行ですから、その鏡像の上下は入れ替わりません。でも自分の前後と鏡像の前後は鏡面を境にして反転しています。自分の体の正面は鏡面に近く、自分の背中は鏡面から遠いのです。ですから鏡像の背中の位置は鏡像の正面よりも奥に置かれるのです。反転しなかった上下と反転した前後を組み合わせれば、鏡像の左右が反転してしまうのは、先に述べた「左右」という言葉の定義から自然に導かれる事実にすぎません。特に不思議なことではないのです。なお天井に鏡を貼って上を見上げれば、自分の姿や床が上下反転しています。鏡面を境とする「前後」の方向を「上下」に一致させれば、今度は上下も反転するのです。なお天井の鏡に対しての自分の前後は、通常上を見ずに顔をまっすぐしたままの正面方向で決めるので、天井の鏡と自分の「前後」は平行です。その結果として自分の体の「前後」は反転せずに、「上下」が反転するので、天井の鏡の自分の鏡像は上下だけでなく、左右も反転しているのです。

なおここで鏡像の左右反転の問題で注意が必要なのは、鏡の前の物体とその鏡像の関係を直接比較しなくてはいけない点です。すくなくとも最初で述べた子供たちからの質問はそういう意味であったはずです。元の物体を鏡の裏に回り込ませるという物理的な移動によって用意される新たな物体と、元の場所での鏡像を比較することではありません。上下を中心軸として鏡の前の物体をくるりと180度回転したものや、物体の左右を貫通する軸を中心に物体の上下を180度回転させたものなどと、元の物体の位置でのその鏡像とを比べることではありません。鏡の前に立つ自分の頭が自分の上、足が自分の下、そしてその鏡像にとっては、その鏡像の頭が鏡像にとっての上、足が鏡像にとっての下です。この上下は鏡に平行であるため、自分の上下と鏡像の上下は同じ方向を向いています。そうすると自分の上下と鏡像の上下が反転する余地はそもそもありません。自分が逆立ちしたイメージの上下と、元の自分の鏡像の上下を、わざわざ比較する理由はないのです。

自分の鏡像の左右が反転するのは、自分にとっての「左右」という言葉の定義に基づいています。基本的には脳の認知の問題ではありません。左右の定義を共有している多数の被験者に鏡の前に立ってもらったとき、そのほぼ全員が左右反転をしていると答えると思います。例えばその実験で少人数でも被験者が「共通の左右の定義に即しても、左右反転していない」と答えたときには、この鏡像左右反転現象は人間の脳や認知の本質的な問題となり得ます。脳内でミラーリングを起こしている人が存在しているという意味になるからです。でも繰り返しますが、左右の定義を事前に共有している被験者ならば、「左右反転していない」と答える人はほぼいないと思われます。つまり言葉の定義の共有を実験設定としてきちんとする必要があるのです。そうでないと、言葉の誤解による人々の単なる先入観を測定しまうことになります。言葉の定義を統一していなければ、仮にある被験者は鏡に映る像の左右を上の定義に基づいてちゃんと答えても、別な被験者は鏡に映る像の左右を、普段からの癖で、自分の体の左右に基づいた先入観で答えてしまうかもしれません。それは、たとえば三色の信号機の写真を見せて「一番左側は何色ですか?」と質問をしたときに、多くの人が「緑」ではなく「青」と答えてしまうのと同様のことです。これは人々の学習に基づいた先入観の答えに過ぎません。そのような先入観を計測すること自体は、たとえそれに心理学もしくは言語学的な意義があっても、この鏡像反転問題において本質ではありません。この言葉の混乱は、ちょうど上で述べた、太郎さん、花子さん、次郎さんの、鏡が出て来ない段階での話と同じであり、したがって鏡の本質とは無関係なのです。

もし左右の概念を根本的に持ちえない知的生命体が居れば、自分の左右そのものを理解できないので、その生命体が鏡を覗き込んだとき「自分の鏡像の左右が反転している」とは決して言わないでしょう。たとえば無重力空間で生まれた仮想生命体「鏡像反転モンスター」を考えてみます。

鏡像反転モンスター

球対称な目と脳に4本の手が等間隔かつ同一平面上にのるように生えていて、それがゆっくり1方向に回転している知的生命体です。このモンスターには手の生えている面に対する正面(表)と背中(裏)の差だけはありますが、そもそも上下も左右もありません。正面と背中の区別が生まれる理由は腕の回転方向が1つに決まっているからです。モンスターは、自分に向き合ったもう1匹のモンスターが自分に対して正面を向いているのか背中を向いているのかを、相手の腕の回転方向が時計回りか反時計回りかで、判断します。そういうモンスター達が鏡を見るときには、鏡の中に自分の背中が映っているように感じるはずですね。「鏡は左右を反転させるもの」というのは、思い込みに過ぎません。左右を上で述べた軸性量として定義をする人間にとっては左右反転が起きますが、左右を持たない知的生命体には鏡像左右反転はそもそも起きないのです。これは正しい意味でのモンスターと人間の認知の差の結果と言えます。

この鏡像反転モンスターは知的生命体なので、人間がモンスターに教えた「人間の左右の定義」を理解することはできます。するとモンスターと一緒に鏡の前に立った人間の鏡像では、人間の「左右」の定義において、左右反転していると正確に答えることでしょう。モンスターは鏡に自分の背中が見えるのに、人間には左右が反転していると答えることに面白みを感じるに違いありません。

なお素粒子物理学では、鏡の外と中の世界は異なることが知られています。パリティ対称性の破れと呼ばれています。鏡の国のアリスの世界は、我々の世界と物理法則が少しだけ違うのです。読者の皆さんには、子供達へ素粒子物理の不思議な世界の存在を是非伝えて頂ければと、私は願っております。


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