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物理学の内容とは無関係に行なうことができる数学

山口さんの

をすこし読んだ。哲学的議論を物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができるという意見には同感なのだが、その理由として示された

この世界の物理的側面がどのようなあり方をしていようとも、依然として同じ論理法則が成り立つ。

《どんな論理法則が成り立つか》は物理学の個別的内容に依存しない、という命題の意味

は言い過ぎのような気がするので、山口さんが言いたかったことを誤解している可能性もあるが、備忘として書いておきたい。

量子力学

一般的に分配律は論理法則だと思われていると思うのだが、量子力学では成り立たないことが知られている。wikipediaには

量子論理(りょうしろんり、quantum logic)とは、量子論において見られる現象と相似するような形式論理の体系で、分配律が成り立たない無限多値の論理

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%AB%96%E7%90%86

と記載されている。これは、「この世界の物理的側面がどのようなあり方をしていようとも、依然として同じ論理法則が成り立つ」の判例のように思われる。

非古典論理

論理法則としては、いろいろな法則が成り立ったり、成り立たなかったりする体系を考えることができる。Wikipediaには、

古典論理の代替としての非古典論理は、基本的に、古典論理の定理のいくつかがその論理体系では定理でない。

直観論理
排中律を認めない。
多値論理
「真」、「偽」以外にも様々な真理値を取る論理。
適切さの論理
別名 : 相関論理、関連性の論理、関連性論理
「1+1=3なら宇宙人がいる」のような命題を真とは考えない論理。
線形論理
矛盾許容論理
Aと¬Aから⊥を導けない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%AB%96%E7%90%86

と記載されている。このように排中律が成り立たない論理体系も考えられるのである。排中律が成り立たたなければ、

排中律や二重否定の除去が成り立たない直観論理では、狭義の背理法による証明は成立しない

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8C%E7%90%86%E6%B3%95

というように、背理法での証明は成り立たない。直観論理が正しいと思えるような物理理論(古典力学、量子力学に続く第3のXX力学)は知られていないが、存在しないことが示されているわけでもない。研究する興味が誰にもわかないということだけだろうと思われる。そのうち、誰かがXX力学では排中律が成り立たないと言い出すかもしれない。そうすれば、この世界の物理的側面が違えば、同じ論理法則が成り立ない例の追加になるだろう。

モーダスポネンス

山口さんは、

「A ならば B」における「ならば」という表現へ《「A ならば B」は、A が真のとき、そして B が偽のときに、真になる》という非標準的な意味づけを与えたときは、「「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である、という法則は成り立たない」などと主張できる(これが MP を否定する意味論の一例である)。とはいえこうした主張を行なう場合にも、《A が真でありかつ B が偽である》という命題と、《「A ならば B」は、A が真のとき、そして B が偽のときに、真になる》という非標準的な意味論的規則とから、《Bが偽である》を引き出すさい(これを引き出して《「A ならば B」が真であり、A が真であるにもかかわらず、B は偽である》と導かねば目下の主張は行なわれない)、より深い次元で《「X ならば Y」でありかつ「X」であるとき、「Y」である》というもともとの法則が用いられている。

と書いているが、非標準的な意味づけを与えたりせず、単に「A ならば B」が成り立つことがない世界を考えてもよいと思うのである。一切確かなことは存在しない物理法則に従っている世の中である。そこでは、そもそも「A ならば B」ということがないのだから、”「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である“という論理法則が成り立つこともない。このように、どんな論理法則が成り立つかは物理法則の内容に依存する(物理法則によって変わってくる)可能性があると私は思うのである。

哲学的議論を物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができる理由

「哲学的議論を物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができる」理由は、「数学を物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができる」理由と同じである。何を考えるかは自由であり、物理学の内容に縛られる必要はない。何も確かなことがない物理世界において、確かなことがあった場合のことを考えても何も悪いことはない。山口さんの「基礎的な論理を哲学するさいに、物理学の個別的内容へ言及する必要性が生じることはない」という意見には私は賛成である。「論理の法則と、自然法則とは、その特性や身分が大きく異なる」にも賛同する。しかし、”前者は後者に重要な意味で「先立つ」と言える”には私は同意できない。論理は自然に先立ってなどいない。

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