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三浦芳聖伝 12、日曜院の住職時代(1)


日曜院の住職時代(1)

1、恵照山日曜院の住職に就任

🟡禅空ぜんくう慶定けいじょう和尚」の誕生

およそ2年間の兵役を無事に終えて除隊した芳聖は、大学には復学せず大正15年(1926年)12月1日、楠林山安楽寺の末寺である「恵照山えしょうざん日曜院にちよういん」の住職に就任しました。

数えの23才(満齢22歳)、「禅空ぜんくう慶定けいじょう和尚」の誕生でした。

日曜院
恵照山日曜院(愛知県蒲郡市清田町門前、昭和45年頃)

🟡住職就任の理由

学問で身を立てようと志していた芳聖が、大学には復学せず、数えの23才の若さで日曜院の住職に就任したのは、総本山誓願寺の管長に就任した富永老師から、法脈の隆盛のために住職に就任して力になって欲しいという要請があったからです。

一方、芳聖は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災での奇跡的な蘇生体験、翌年6月30日に掘り出した三浦家系図、神風串呂の解明、長慶天皇 皇統譜 登列 等々の一連の流れの中で、博士号を取って学者になるという世俗的な望みは雲散霧消し日曜院の住職に就任する道を選んだのです。

芳聖は、後醍醐天皇の直系嫡皇孫として、遠祖の御陵探索・制定御供養ごくようなど、やらねばならないことが一杯あって、博士号を取るとか学者になるとかという世界に生きている事が出来なかったのです。

先ず神皇正統家の嫡皇孫として生を受けた深刻な悩みを解決したかった。また、皇位継承についての歴史上の疑義が生じ、その当事者としてこの悩みを第一に解決したかった。芳聖に一番必要だったのはこうした悩みを解決する為の「時間」だったのです。自由に行動できる「時間」が何よりも必要だったのです。

🟡弟の良俊りょうしゅんを院代に置く

そこで、芳聖は住職に就任した半年後の昭和2年(1927)の6月には、西山専門学校の教員就任を理由にして、弟の良俊りょうしゅん(幼名元一もとかず1906年生れ)を恵照山日曜院の院代に置いて住職の仕事は全て任せることにしました。

芳聖は、一ヶ月の内5日間は京都の西山専門学校で講義をし、10日間は遠祖の御陵探しにあて、残りの15日間は東京都中野区の「新井薬師」に隣接した「高橋」という家の二階を間借りして、東京での修養・研鑽と維新運動に充てていました。

芳聖は、神皇正統嫡皇孫として生を受けた懊悩を解決したり日本歴史の疑義を解明したりするため、錦旗会きんきかいに入会し、会の顧問であった山口鋭之助の門下生と成ったり、荒木貞夫、真崎甚三郎、両将軍と交流するなどして、その機会をうかがっていました。

🟢山口鋭之助・・・宮内省図書頭ずしょのかみ諸陵頭しょりょうのかみを歴任、宮中顧問官。錦旗会顧問。

芳聖に一番必要だったのは、こうした懊悩や課題を解決する為に自由に行動できる「時間」が何よりも必要だったのです。やらねばならぬ事が一杯あってお寺の住職をやっている時間も、心の余裕も無かったのです。芳聖には、お寺は正に「日曜院」だったのです。😊😊😊

2、檀家総代を破門

日曜院
愛知県蒲郡市清田町門前(地図マピオン)

🟡檀家総代来たる

大正15年(1926年)12月1日、芳聖が日曜院に住職として赴任すると、暫くして日曜院の檀家総代が挨拶にやって来ました。檀家総代は、新住職芳聖の人物の品定めと、日曜院の「しきたり」の確認にやって来たのです。

例えば、お寺の行事について、あるいは檀家の家の格式や経済力、お布施の金額や引き出物によって法要や葬式で読むお経についてなど、日曜院の「しきたり」があったので、そういう細々こまごまとした「打ち合わせと確認」にやって来たのです。

芳聖は数えの10才の時から楠林山安楽寺で修行し、お寺の経営について、いわば「お寺の子」と言ってもいいほど熟知していたので檀家総代の機嫌を損ねたら寺門の経営にマイナスである事は百も承知でした。

🟡読経に関し檀家の差別はしない

この時芳聖は、この檀家総代の言う「檀家の家の格式やお布施の額によって読むお経を変える云々」という申し出を一蹴し、「私が住職の間は、読経に関し一切檀家の差別はしない!」と宣言したのだ。

それを聞いて怒った檀家総代は、「日曜院のしきたりを無視し、勝手にそんな事を決めていいのかね。私が今まで檀家総代として、このお寺のためにどんなに貢献してきたか知っているのかね。あの庭の石灯篭いしどうろうも私が寄付したものだ。○○も私が寄付した。○○の時には・・・」と経済制裁とも言うべき話で圧力をかけて来たのです。

🟡檀家総代を破門

芳聖は、「檀家の分際で、住職に向かって何を言うか。そんなものがそんなに惜しけりゃ今すぐ持って返れ!」と言うが早いか、外に飛び出して行き、庭にあった石灯籠を門の外まで引きずって行って、「只今、今日限り破門する!」と言って檀家総代を破門したのです。

数えで23才の若い和尚が住職に就任するや、老練の檀家総代を破門にした話は他では聞いたことがない。この話は芳聖の人物を知る上で、とてもよいエピソードだと思います。この話から芳聖の宗教者としての自覚が如何なるものであったかが分かると思います。

京都や東京での学問修養、関東大震災での臨死体験、三浦家系図、神風串呂の解明、長慶天皇の皇統譜登列、軍隊現役修了、等々の一連の流れの中で、芳聖の宗教者としての見識は、現実界の損得など物の数ではない所まで進んでいた事が理解できるのです。

🟡後日談

このエピソードには、もちろん後日談がある。まさかの破門にあわてた檀家総代は困り果てた末、本寺の富永老師に泣きついたが、全くらちが明かず、ほとほと困り果て、知り合いの軍人に相談した。

すると、この軍人は、「今時そんな偉い坊さんがいるのか!」と言って逆に檀家総代をたしなめ、「その坊さんに是非会いたい!」という事になって、その軍人が芳聖に詫びを入れてくれたので、檀家総代は住職芳聖の経営方針に従うことで破門を許され、元の鞘に収まったという事だ。😊😊😊

3、日曜院の神風串呂

🟣松良天皇御陵と綾子姫命御陵の神風串呂(№95)
「弥生町」-「湊川神社」-「元町」-「南黒田」-「市子」-「恵照山日曜院」-「松良天皇御陵」-「西黒田」-「綾子姫命御陵」-「黒田」

🟣吹嵐の中、昼神・神明降誕の神風串呂 (№112)
「神明」-「日出町」-「御前崎」-「恵照山日曜院」-「卍楠林山安楽寺庫裏」-「蒲郡北部小学校」-「幼年時代の居住地・牧平町マカガイツ」-「三浦芳聖降誕地」-「出来山」-「産場」-「五軒小屋」-「昼神」-「吹嵐」-「神宮寺」-「川浦」-「豊川」-「日出谷」-「極楽山」-「日出町」

4、東京滞在中の神風串呂

芳聖は、一ヶ月の内5日間は京都の専門学校で講義をし、10日間は遠祖の御陵探し、後の15日間は東京都中野区の「新井薬師」に隣接した「高橋」という家の二階を間借りして、東京での修養・研鑽と維新運動に充てていた。

【参照】大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 (№8)
「大日山」-「九重」-「切越町」-「寺野薬師堂」-「御正体山」-「新井薬師・高橋家


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🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟢前号(№125)
🟡次号(№127)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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