三浦芳聖伝 11、軍隊現役時代(№125)
軍隊現役時代
1、豊橋歩兵第18連隊に入営
芳聖は、父・市次郎の遺言どおり、三浦家の系図を別の所へ埋め、翌大正14年(1925年)1月10日、豊橋歩兵第18連隊第1中隊に入営しました。
豊橋歩兵第18連隊は、愛知県豊橋市今橋町の豊橋公園内にあり、当時の連隊長は「高島弥之助大佐」でした。
芳聖は、大正14年(1925年)1月10日から大正15年(1926年)11月30日までの約23ヶ月間を、この豊橋歩兵18連隊で現役兵としての訓練を受けました。
芳聖は、明治大学の学生でしたので大学卒業まで徴兵猶予の恩恵に預れたし、専門学校を卒業していたので予備役将校の道を開く「一年志願制度」が利用できましたが、富永老師が反対したため普通の兵隊として入営しました。
2、軍隊現役生活は楽勝の日々
芳聖は、数えの12歳の時、上級学校進学を志して中学講義録の独習を開始して以来大正14年(1925年)1月10日、軍隊に入営するまで、毎日3時間程度しか睡眠をとらず猛勉強していました。
厳しい生活を自らに課して生活していた芳聖には、一般には苦しくて逃げ出したくなるような、軍隊生活がさほど苦にならず、睡眠時間は増えるわ、起床時間は遅くなるわで、他の同年兵たちの「嘆き」をよそに、余裕綽々、楽勝の毎日でした。
体力は、京都の学生時代の新聞配達で鍛えてあり、号外の出た時など一日に70キロ走った事もあり、10キロや20キロの駆け足など軽いものでした。また射撃訓練は無心になれる楽しいスポーツで、同年兵中では一番的中率の高い名射手でした。
だが、その芳聖も古参兵の意地悪なしごきには閉口しました。芳聖は、数少ない高学歴の持ち主だった上に、威風堂々としていたので、古参兵から嫉妬され、いわれのない私的制裁を受けました。
その屈辱的体験は忘れる事の出来ない苦い思い出でした。そのため芳聖は、自分が上級兵になって初年兵を教育する時には、一切暴力を振るいませんでした。
3、兵隊コンクールで日本一
(1)下士志願兵教修で最優秀となる
芳聖が豊橋歩兵第18連隊入営中の大正15年(1926年)、全国の各連隊から下士志願兵を一箇所(名古屋市守山区)に集めて特訓する教修がありました。この時が最初であったようです。
教修訓練の成果は「兵隊の成績」として優劣が問われるので、一種の兵隊の能力コンクールでした。
毎日の軍隊生活が余裕綽々で、実地訓練も座学も優秀だった芳聖は、連隊長から「下士志願はしなくてよいから日本一の兵隊になって来てくれ」と言われてこの教修に参加し、文字通り全国一の優秀な兵隊として表彰されました。
この下士志願兵教修所で全国から集まった兵隊の指導に当たっていた教官の中に、吉田松陰を尊敬する青年将校で憂国の士がいて、若い芳聖は強烈な感化を受けました。
(2)歴史教官との出会い
教修所で歴史の講義を受けている時、長州出身の教官(青年将校)が、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退ここに極まれり、こんな事ならいっそ死んだ方がましだと死を熊野にお祈りしたと言うが、何と重盛という人は、実に誠の人ではないかと教官は思うがお前たちの意見はどうだ!」という質問をし、
「教官の意見に賛成の者」と言ったら他の兵隊は皆手を挙げたが、芳聖一人は手を挙げなかった。
すると、その教官は「おい!そこの十八連隊の兵隊」「はい」「出て来い!貴様は教官の意見に反対か!」「反対であります!」「よし、その反対意見を述べてみよ!」ということになって、
芳聖は、軍法会議に回される事を覚悟で、次のように意見を述べた。
すると、教官は教室の全兵隊に向って「えらい!教官の意見は誤り。お前たちは教官に媚びんとして手を上げ、自分の信念を通したのは三浦だけではないか。全国から集っている兵隊!自分の正しい意見だと思ったら何故言えんか!」と、お叱りになりました。
そうして、授業が終ってから芳聖を呼んで「俺の家は守山のこういう所だ。日曜日に訪ねて来い、命令だ!」と言われたので、日曜日に訪ねて行くと、部屋に士規七則を掲げ、吉田松陰の大きな木像が飾ってあった。
芳聖が、教官と天下国家についていろいろと話をするうち、教官は「下士官になんかになるな、貴様はそんな人間じゃあない。この日本の建て直しをやっていける人間だ。どうして下士志願などしたんだ?」と言われたので、
芳聖は、「私は下士志願したのではありません。連隊長殿が、下士志願しなくてよいから日本一になって来いという命令で参りました。」と答えると、
教官は、「そうかそうだろう。貴様みたいな人間が下士志願して軍人になるような小さいものじゃあない。やあ、教官は感銘した、どうか日本の為にその精神を以て、この腐り果てた日本を作り直して貰いたい!」と言いました。
この教官は、日本の将来を憂え、全国から集っている兵隊の中に一人ぐらいは人物がいないかと重盛の話をしたようだ。この教官に出会ったことにより、芳聖の昭和維新運動への種まきがなされたのではないかと思います。
この教官は後に台湾に赴任して大尉で命を落とした。後で話す芳聖の仲人「水谷一生」氏の上官に当る方だが、芳聖の書き残した記録にその名前が出ていないのが残念だ!
(三浦芳聖著『串呂哲学と地文学』昭和39年10月号、要約)
4、遠祖「長慶天皇」皇統譜に登列
(1)長慶天皇登列
除隊する日も真近になった、大正15年(1926年)10月21日の朝、芳聖は豊橋の歩兵第十八連隊第一中隊第一斑の部屋で新聞を読んでいた。
すると、そのトップ記事に、長慶天皇登列の詔書が出たニュースが載っていました。
その内容は、「長慶天皇は、これまで在位がはっきりせず、歴代から外れていたが、在位の事蹟が明瞭になったので、第97代後村上天皇の次の天皇として皇統譜に列する」という宮内省の発表でした。
「長慶天皇は、第98代の天皇であったが、これまで歴代から外れていた。即ち第97代は後村上天皇、第98代は長慶天皇、第99代は後亀山天皇とする。」という宮内省の発表が朝刊に出ていたのだ。
長慶天皇(長慶院法皇)は、南北朝時代の動乱期(三浦家の記録によれば、西暦1342年~1409年)に活躍した方であるためか記録が少なく、その御事跡については不明な所が多く、江戸時代から在位説と非在位説があった。
(2)三浦家の遠祖「長慶天皇」
この時、壮丁検査が済んで掘り出した「中学専門学校で学んだ歴史とは全然相違する三浦家系図」と「皇統譜」との接点が突如浮上したので、芳聖の驚きは大変なものだった。
長慶天皇(長慶院法皇)の皇女綾姫は松良天皇の皇后であり、第百代大宝天皇の外祖父でもあった。その遠祖・長慶天皇(長慶院法皇)が、新たに皇統譜に登列されたので、芳聖の受けた衝撃は大変なものだったのだ。
三浦芳聖皇統家の系図については、下記の「三浦皇統譜」を参照ください。
(3)射撃訓練で暴発
この日の宮内省発表にびっくりして動揺した芳聖は、その日、連隊の特別射撃の訓練で、名射手を以て任じていたが的をはずして暴発し、中隊長から「本来ならば営倉入りだぞ!」と厳重注意を受けた。芳聖のこの時のショックが如何に大きかったがこの話から理解されよう。
芳聖は、この日の重大な出来事を自分一人の心の中にしまっておく事が出来ず、同郷の出身者で小学校時代の同級生であった鈴木徳市という人に、「実は今朝新聞に出ていた長慶天皇は私の所のご先祖である。それで動揺して暴発してしまったんだ・・・この事は極秘になっているから誰にも言わないでくれ」という内容の事を話したそうだ。
戦後、南朝史学会の藤原彦人(石山)氏がこの時の話を額田町の樫山で鈴木徳市氏周辺の人々から聞いて、芳聖が戦後になって初めて三浦系図の事を言い出したのではないという証拠になった。
5、除隊後、日曜院の住職に就任
こうして、芳聖は大正15年(1926年)11月30日、高島彌之助連隊長より豊橋第18連隊第1号の下士官適任証書及び善行証書を受けて無事兵役を終えた。
除隊後は、富永慶法老師の要請を受けて、末寺院「恵照山日曜院」の住職に就任することになった。
休学中の大学に戻らなかったのは、永慶法老師の要請と芳聖の行動計画の優先順位(三浦家の系図に記載されていた遠祖の御陵探しや神風串呂の解明)が一致したからであろう。
大正15年(1926年)12月1日、串呂主宰神の計画した青写真通り、芳聖は日曜院の住職に就任しました。
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三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
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串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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