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三浦芳聖伝 13、日曜院の住職時代(2)


日曜院の住職時代(2)

🟠西山国師の秘訣集を読破

🟡光明寺の経蔵に籠って西山国師の御文章を読破

1926年12月1日、日曜院の住職に就任した芳聖は、翌昭和2年(1927年)1月、京都府長岡京市粟生あおの西山浄土宗総本山光明寺の経蔵きょうぞうこもって、西山浄土宗の開祖「証空しょうくう善慧坊ぜんえぼう西山せいざん国師」(西暦1177年~1247年)の書き残した著書を次々と読破して行きました。

数え年の23歳のときのことです。

光明寺の経蔵の著書を読むことが出来るのは、住職以上の資格が必要でした。住職に就任した翌月に経蔵にこもった事は、芳聖が住職という職業に如何に真剣に取り組んでいたかの表われであります。

💝住職に就任した芳聖は、ただただ西山浄土宗の奥義を究めたかったのです。

光明寺
西山浄土宗総本山光明寺(京都府長岡京市粟生)

証空しょうくう善慧坊ぜんえぼう西山せいざん国師は、浄土宗の開祖 法然上人の高弟で、特に学問に優れ、多くの書物を書き残し、日本の仏教史上、偉大な足跡を残した方です。

🟡『観経秘決集』の結文けちもんで大悟

芳聖が、西山国師の著書を読んでいくと、最晩年に書き表わした『観経秘決集かんぎょうひけつしゅう』の巻二〇「娑婆を弥陀本国に造る」の結文けちもん(結論部分)に下記のようなご文章を発見し、廓然かくねんとして大悟したというのです。

十方じゅっぽう衆生しゅじょうの為に正覚しょうがくじょうずるものは和朝わちょうきわまる。超世ちょせ大願たいがんひとえに大日本国におこる。此の国を以て弥陀本国と為す。

🟣観経秘決集(かんぎょうひけつしゅう)
二〇巻。伝証空記。成立年代未詳。善導『観経疏』の注釈書で、「西山事相三十八巻鈔」と呼ばれる観道釈五部作の一つ。「来迎は大悲を捨て本願を捨てて来る」(巻一三)、「娑婆を弥陀本国に造る」(巻二〇)などの特異な教説から、本覚思想の影響が指摘される。天明四年(一七八四)俊鳳妙瑞が『西山復古篇』(正蔵八三)で三十八巻鈔偽撰説を公表して以来、真偽についての議論がある。(新纂浄土宗大辞典)

超世ちょうせ大願たいがんとは、『仏説無量寿経』の第十八願のことを言います。一言で言い表しますと「どこまでも衆生を救わねばおられない菩薩の誓願」とでも申しましょうか。

西山国師は、「我が国を、その超世ちょうせ大願たいがんが最高に興隆する弥陀本国にする」ことこそ浄土教の神髄であると述べておられるのです。

この『観経秘決集かんぎょうひけつしゅう』は、西山浄土宗の最高峰の奥義書おうぎしょの一つで、芳聖は、その結論部分に西山国師が、このように書き残しておられたのを発見したのです。

その後、『観経秘決集』は、昭和2年(1927年)11月25日に仏書刊行会から出版され、WEB上で見ることが出来ますので、参考の為掲載します。

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西山国師『観経秘決集』
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西山国師『観経秘決集』

【参照】大日本仏教全書. 第54巻 観経秘決集(証空撰)453・454頁

🟡超世の大願ひとえに大日本国に興る

芳聖の著書から関連部分を引用します。

下記の文章を書くに当たって芳聖は、昭和20年(1945年)1月の名古屋空襲で罹災りさいしていますので、ノートやメモなどの資料なしで、記憶を頼りに書いたようです。

その為、原文と一致しない箇所には(国)を補い、漢文の箇所には書き下し文を補い、歴史的仮名遣いは新仮名遣いに変換しました。

昭和二年京都府乙訓おとくに粟生あおの総本山光明寺(神風串呂は出生地と西山聖地を結んだ串呂上)の経蔵に入りて初めて西山国師の秘訣集(西山国師最晩年の著書)を読破して、その経文に

  十方衆生の為に正覚を成ずるものは和朝に極まる、超世の大願偏えに
  大日本(国)に興る、故に此の国を以て弥陀本国となす。

とあるを見て、廓然かくねんと大悟徹底するに至りました。

即ち神儒仏耶しんじゅぶつやの諸宗教が二千年に渉りて弘通せられ幾多の聖人賢士を出すといえども未だ人類は救済せられず、益々苦海に沈淪ちんりんす。之即ち絶対真理にあらざる為なり。

しかり我が皇国々体こうこくこくたいこそ「くらげなすただよえる世界を修理固成しゅりこせいする」使命を有するものであり「萬邦ばんぽうをして各々その処を得しめ、兆民ちょうみんをしてそのに安んぜしむる」当体である。我皇国こそは「若不生者不取正覚(もし生まれずば、正覚を取らじ)」の大誓願国である。

故に我国をして大無量寿経に説かれてある如き理想郷即弥陀本国たらしむる。

即ち皇国体の在るべき本来の真姿を政治、経済、思想、文化生活万般の上に開顕したる皇国を実現し、皇祖こうそ肇国ちょうこくの大理想たる

『上は乾霊けんれい(天津神)の国を授け給いし徳に答え奉り、下は皇孫すめみまの正しきを養い給いし御心をひろめん。しこうして六合りくごうを兼ねて以て都を開き、八紘はっこうをおおいていえとせんことまたよからずや』

詔旨しょうしを実現する事こそ全世界全人類を救済することにあらずして何ぞや。(後略)

(三浦芳聖著『姓名鑑定秘法』6頁、昭和30年/1955年)

🟡此の国を以て弥陀本国と為す

芳聖は楠林山安楽寺で、数えの10才の時から仏典や漢籍を学んでいたので漢文は斜めに読めたようです。

その上、東京で渥美勝先生に邂逅かいこうし日本的生命観に開眼せしめられていたので、この西山国師の思想がよく理解できたのです。

十方じゅっぽう衆生しゅじょうの為に正覚しょうがくじょうずるものは和朝わちょうきわまる。超世ちょうせ大願たいがんひとえに大日本国におこる。此の国を以て弥陀本国と為す。

芳聖は、「弥陀本国=八紘一宇の家族国家日本=皇国」で、この世を弥陀本国すなわち王道楽土の理想郷にする菩薩行に邁進まいしんする事こそ、日本民族の生きる道だと悟ったのです。この理想が、芳聖の生涯を貫く思想・信念でした!

これは、浄土思想と日本的生命観の見事な融合です!

結文けちもんの最後には「永く浄土に居る者。人中の最勝人と為す。まさに知るべし。」とあります。

そこで、芳聖は、この新教義に基づく新宗派設立運動を展開したのですが、碩学とか言われる頭の固いお偉方や宗務当局は、時代の流れが読めず、芳聖を過激分子として譴責けんせき処分に附したので、芳聖は錦旗会に入会して昭和維新運動に邁進することになります。

芳聖が、浄土宗西山派の僧侶として進んでいたら、この『観経秘決集』に書かれている「娑婆を弥陀本国に造る」思想を元に、新しい時代にあった浄土教を創始し、新宗派を打立てたのではないかと思いますが、芳聖は、昭和4年(1929年)8月、出山還俗したので、新宗派設立運動は、それ以上発展する事はありませんでした。😭💘😩

🟠光明寺(京都府長岡京市粟生)の神風串呂

光明寺
京都府長岡京市粟生(地図マピオン)

🟣西山聖地と光明寺と三浦芳聖降誕地を結ぶ神風串呂
西山聖地」(兵庫県加西市青野町)-「西山浄土宗総本山光明寺」(京都府長岡京市粟生)-「三浦芳聖降誕地」(愛知県岡崎市牧平町大門)

西山聖地と西山浄土宗総本山光明寺、西山聖地の住所の青野(あおの)と光明寺の旧地名の粟生野(あおの)が一致している点、串呂主宰神の配慮が窺われます。(下記の両資料を参照ください。)

芳聖は、たまたま浄土宗西山派の僧侶になったのではありません。西山国師の『観経秘決集』を読む為に、浄土宗西山深草派の楠林山安楽寺に導かれたのです。

また、西山国師は、芳聖の為に『観経秘決集』を書き残したのです。串呂主宰神の悠久かつ荘厳・遠大な計画がここにも歴然と見られるのです。正に「大日本国は弥陀本国」です。

この粟生野の地は、浄土宗を開かれた法然上人が、で初めて念仏の法門を説かれた地に、熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が「念仏三昧院」を建立したこと。また太秦の西光寺に移した法然上人の棺より数条の光明が放たれ、南西の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れたので、遺骸をこの粟生野の地で荼毘に付し寺の裏山にご芳骨を納め御廟堂を建て光明寺と称される事にった。(「光明寺とは」より要約)


🟣バックナンバー総合

🔴情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№126)
🟢次号(№128)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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