見出し画像

💟ここまで解った元伊勢伝承-第3話 天照大御神は崇神王朝の祭祀を拒否

🟡崇神王朝の祭祀を拒否した天照大御神

🟠崇神天皇の39年、笠縫邑を出て丹波地方へ巡行
その後、崇神天皇は、豊鋤入姫命とよすきいりひめのみことに皇祖神(天照大御神)を託して、倭国やまとのくに笠縫邑かさぬいむらで33年間もお祭りしたのですが、崇神天皇の39年に、皇祖神(天照大御神)は、笠縫邑で崇神王朝に祭祀されるのを拒否し、笠縫邑を出発し各地を巡行されたのです。

🔴これが、元伊勢伝承の始りです!

天照大御神は、笠縫邑での崇神王朝の祭祀を拒否して丹波地方(京都府福知山市大江町内宮)に緊急避難されたのです。これが「⛩元伊勢内宮皇大神社」です。

伝承によれば、第10代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、それまでお祀りされていた倭笠縫邑(現奈良県桜井市三輪)をお出になったといわれます。(元伊勢内宮 皇大神社) 

🔴真実は4世紀の始め、今から1700年前の事象です。

元伊勢内宮皇大神社

🟡崇神天皇の正体は異民族か!

要するに、

🔴天照大御神は、大和地方の笠縫邑で崇神王朝の守護神となることを拒否された訳です。これは「記紀」に記録されている事実です。

上記で考察したこの事実を踏まえ、「記紀」および「神皇記」を紙背しはいに徹して深読みしますと、状況証拠から、崇神天皇は天照大御神の皇孫ではなく、異民族であり、大和王朝は征服王朝だったと思われるのです。

下記がその状況証拠です。

(1)都を遠く離れた伊勢地方に鎮座
笠縫邑を出て丹波地方に巡行された天照大御神は、「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」と各地を巡行され、そのおよそ90年後に伊勢地方に鎮座されました。

この伊勢地方は、都を遠く離れた僻遠の地であります。これを人間社会の一般常識から申しますと、「出来るだけ大和地方から離れたい!」という事になります。

🔴異民族の支配する大和地方から出来るだけ離れたい!豊葦原の瑞穂の国を侵略し神宝を奪った崇神王朝の守護神に祭り上げられたくない!との強い決意の表明だったのではないでしょうか。

都を遠く離れた僻遠の地 伊勢地方(YAHOO!JAPAN地図)

(2)歴代大王おおきみの伊勢神宮公式参拝なし!
崇神王朝以降、大和朝廷は、天照大御神を敬遠して来たのです。その証拠には、明治時代になるまで、歴代大王おおきみ・天皇の中で、誰一人として伊勢神宮に正式参拝したという記録はありません。

(持統天皇と天授元年/1375年の南朝「長慶院法皇」の非公式参拝の伝承あり)

(3)大和王朝=侵略王朝説は世界の常識
ヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本』(1948年)には、

🔴大和王朝は海外からの侵略王朝であると明記されています。

私達は、この認識が世界の常識である事を知らねばなりません。

🟠『騎馬民族征服王朝説- Wikipedia
東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説。

(4)崇神天皇=扶余ふよ依羅いり
鹿島曻著『日本王朝興亡史』(新国民社、1990年)では、第10代崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)は、扶余ふよ依羅いり(百済の近肖古きんしょうこ王)と断言しています。

崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)=扶余王依羅いりイリ王朝

崇神天皇の子女の名前に「いり」が入っている。
*第11代 垂仁天皇(いくめいりびこいさち)
*崇神天皇 皇子 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
*崇神天皇 皇女 豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)
*崇神天皇 皇子 大入杵命(おおいりのきのみこと)
*崇神天皇 皇子 八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)
*崇神天皇 皇女 渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)
*崇神天皇 皇女 十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)

(5)上田正昭(京都大学名誉教授)
『国史大辞典』で「北方大陸系の騎馬民族が征服王朝を樹立したとする騎馬民族征服王朝説では、騎馬民族の後裔である崇神天皇に象徴される勢力が北九州に入って第一回の建国をなし、北九州から機内に進出した応神天皇によって第二回の建国がなされたと解釈する・・・。」とあります。

(6)水野祐 (歴史学者)は
『日本古代王朝史論序説』(1952年初版、1954年増訂版)において万世一系を否定し、日本の古代王朝は単一王朝ではなく、古王朝(先王朝と崇神王朝(崇神 - 仲哀))・中王朝(仁徳王朝(応神 - 雄略)と後仁徳王朝(飯豊))・新王朝(継体王朝)の三王朝が交替した、とする、いわゆる「三王朝交替論」を提唱した。

(7)イリ王朝は扶余族王子・依羅(イリ)の渡来王朝
最近の研究では、高句麗系の史書、渤海国史ぼっかいこくし大震国本紀だいしんこくほんぎ」(桓檀古記かんだんこき)の記事が引用されています。

正州せいしゅう依慮いりょの国都とする所なり、鮮卑せんぴ慕容廆ぼよう かいのために敗られ、憂迫ゆうはくして自裁せんとし、たちまち念ず。「我が魂、なお未だほろびざれば、則ち何ぞきて成らざらんか」と。ひそかに子・依羅いりゆだね、白狼山はくろうざんえて夜海口かいこうを渡らしむ。従う者数千、遂に渡り倭人を定めて王と為る。自ら三神さんじん符命ふめいに応ずと為すを以て、群臣をして賀儀がぎを献ぜしむ。或いは云う「依慮王、鮮卑の為に敗られ、逃れて海に入りてかえらず。子弟走りて北沃沮きたよくそを保つ。明年、子・依羅立つ。事後、慕容廆、また復び国人を侵掠しんりゃくす。依羅、衆数千を率い、海を越え遂に倭人を定めて王と為る」と。

渤海国史「大震国本紀」

(8)疫病が発生した原因は異民族の侵入が原因か
「記紀」には、崇神5年、疫病による大量の死者が出たと記録されています。海外から数千人も異民族が侵入してくれば、それまで国内には無かったウイルスで疫病が蔓延し、多くの人民が死亡した理由も説明が付きます。

🟢扶余民族の習慣

夫余の風習としては、天を祀る祭日には、酒を飲み踊る。これを「迎鼓げいこ」とよぶ。衣服の色は白を好み、身分の高い者は金銀の飾りが付いた帽子をかぶり、毛皮を羽織る。死者の埋葬法には槨はあるが棺は無い。貴族が死ぬと一〇〇人もの殉死者を葬る――などがある。/このように、夫余では牧畜は行なわれていないが、スキタイ以来の北方騎馬民族の遺風が色濃く受けつがれていることは確かである。これは漢民族の中国人社会とは異なるもので、「蛮夷」の民として描かれている。後に見るように、この伝統は朝鮮の高句麗・百済の王朝に継承され、伽耶国を経てヤマト王朝にまで伝来していることがわかってくる。
(澤田洋太郎「伽耶は日本のルーツ」76頁)

(9)崇神天皇 吉備国 在住説(崇神天皇東遷説)
地名学に基づく古代史研究家である丸谷憲二さん黄蕨の会代表)は、岡山県瀬戸内市長船町おさふねちょう長船天王にある「⛩️靭負ゆきえ神社」は、旧社名を「⛩️崇神天皇社すじんてんのうしゃ」といい、ここに崇神天皇の皇居が存在したと主張しておられます。
🟣瀬戸内魅力物語「百枝八幡宮より見える吉備国の古代史」

(10)女系天皇を嫌う皇室
伝統を重んじる皇室は、天皇位の継承について、男系による継承を重んじて来ました。ところが、皇祖神天照大御神は女神様であります。男系による天皇位の継承は、天照大御神の系統ではなく、渡来王朝の証拠ではないでしょうか。


🌷このように考察いたしますと、天照大御神が、崇神王朝の祭祀を拒否して、「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」と各地を巡行されたのは、征服王朝の異民族に支配(祭祀)されるのを嫌ったからだと結論することが出来ると思います。

では、天照大御神は、この異民族の侵略軍に対して、どの様な対抗策を実行されたのでしょうか!

💟第4話 各地巡行は元伊勢クシロ構築の旅


🎀元伊勢伝承とは

元伊勢伝承の皇祖神・天照大御神の各地巡行は、神風クシロ構築の旅であり、各地の産土神うぶすなしん地霊ちれい)に神風クシロ構築計画への協力を呼び掛ける遊説ゆうぜいでありました。

元伊勢クシロは神風クシロです。天照大御神が、伊勢地方にお鎮まりになったのは、串呂の超重要起点(基点・根拠地)をここに置くためだったのです!


🟡ここまで解った元伊勢伝承
💟第1話 崇神天皇、宝鏡を奉遷
💟第2話 崇神天皇が畏怖した理由は?
💟第4話 各地巡行は元伊勢クシロ構築の旅
💟第5話 両朝融和計画進行中


💟皆様方の御支援に感謝しています!

読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。


🔴神風串呂を学びましょう!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道
🎀串呂文庫 コピーサービスのお知らせ(🌷新着)


🟡バックナンバー(総合)

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の皇統を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

*******************
🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
*******************

串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!