💟第14話 大門三串の串呂発見-蔵王山から三浦山まで行脚
🟡蔵王山から三浦山を望む
芳聖は、父親の三浦市次郎が、今わの際に叫んだ
奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!
が気になって気になって、安楽寺の修行時代にお寺の許しを得て田原市浦町の蔵王山に登り、はるか北方の木曽の三浦山の方角を眺めて見ましたが、なにやら神秘的な気はするものの何を意味するのか、さっぱり分かりませんでした。
それでも芳聖は、この父の最期の言葉が気になって気になって、10年間に6回も田原市の蔵王山に登り木曽の三浦山の方角を眺めて見ましたが、何度「蔵王山から三浦山を見ても」さっぱり何も分かりませんでした。
🟡三浦山(長野県木曽郡王滝村)は、中央アルプス御嶽山の西南方に位置する標高2,393mの山岳信仰の山として有名。西南方に「三浦貯水池」「三浦ダム」などがあります。
芳聖は、成長して行動範囲も広くなった学生時代のある日、蔵王山から行脚して野宿しながら三浦山に登って見ましたが、父親が絶叫した言葉の意味は容易に解けるものではありませんでした。
🟡大門三串の串呂発見
さらに知識も増えた専門学校時代のある日、芳聖は、ふと思いついて、国土地理院発行の20万分の1の地勢図を繫ぎ合わせ、地図上の愛知県田原市の「蔵王山の山巓」と長野県木曽郡王滝村の「三浦山の山巓」とを糸で結んで見ました。
すると不思議なことに、その線上に芳聖の出生地の愛知県岡崎市牧平町大門が通っていたのです。
芳聖は、神秘的な思いに包まれ、この線上に位置する他の集落の「地名」を調べてみた所、出生地の
🟡愛知県岡崎市牧平町「大門」のほかに、
🟡岐阜県中津川市付知町の「大門」
🟡愛知県蒲郡市大塚町の「大門」と、
🔴同じ「大門」という地名が三箇所も通っていることを発見したのです。
🟠これは、三浦芳聖の新発見でした!
この新発見の時期は、芳聖の専門学校生時代の大正9年(1920年)4月から大正12年(1923年)3月の間ですから、もう100年以上も前の事になるのです。
後年、芳聖が『串呂哲学第一輯-絶対真理の解明』(大竹書店、1956年)を刊行するとき、この本の原稿を読んだ中根正親先生からの書簡に
と書かれてあったとのことですが、「古今を貫く必死の御研究」とあるのは、中根正親先生は、両洋学院で英語の講師をしていた芳聖が、職員室で授業の空き時間に地図を眺めて研究していた事をご存じであったからでした。
🟡研究継続を誓う
芳聖は、蔵王山-大塚町大門-牧平町大門-付知町大門-三浦山 の線上に、何か重大な啓示が秘められているのではないかと直感し、将来、成人した暁に、父の遺言に従って、三浦家に一子相伝に伝えられて来た「大切なもの」を掘り出せば、何か分かるのではないかと考え、さらに研究を続けていく事にしました。
🟠大御神の御子の教導計画は、自主性、努力、自分で考える、持続力などを重要視していることがわかりますね。
🟠また、大御神は、芳聖がさんざん苦労した末に課題を解決し、感動・感激する姿を見る為に、忍耐強くお待ちになって子育てを楽しんでおられたことも窺われます。
読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。