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💟第15話 芳聖の初恋-御匣殿再現 小田垣清子


🟡英語訳学やくがく解析法かいせきほうの研究発表

大正10年(1921年)7月、京都府教育会館で中根正親先生の創案による「英語訳学やくがく解析法かいせきほう」の研究発表会が開催されました。

英語訳学やくがく解析法かいせきほうについては、すでに三浦芳聖伝 8、京都の学生時代(2)で詳しく紹介していますが、要点を申しますと、当時はまだ珍しかった「英語の基本5文型」を分かりやすく解説した英文解釈学となります。

芳聖が両洋学院のOBとして上記の研究発表をした所、そのことを報じた新聞記事がきっかけとなって、小田垣蘇堂おだがきそどう博士他の方々から、優秀な芳聖に是非、養子になって貰いたいと言う養子縁組のはなしが舞い込みました。

🟡小田垣家の養子話

その中で一番熱心だった小田垣蘇堂おだがきそどう博士は、本名を彦三郎といい、この博士が学長になれば必ず文部大臣の学校認可が取れるという、大正10年(1921年)当時の教育界の重鎮で、その為に立命館も京都成安女子学院も両洋学院も認可取得の為に一度はこの小田垣博士が学長になられました。

この博士が大正10年の7月頃から8月、9月と芳聖の若王子町の下宿へ何度もやって来て、次のように口説かれました。

私は子供が無いので、東大の教授をしている甥の娘を貰う事にして、今、京都へ連れて来て高等女学校に通学させている。優秀な貴君には是非小田垣家の養子になって貰い、第三高等学校、京都帝国大学、大学院、外国留学と学問を修め、将来我が国の学会の大物となって頂きたい。貴君の如きを埋めておくのは日本の損失だ。

🟠養子の縁談を断る

普通の場合なら大出世で、それこそ「二つ返事」で養子になる所ですが、芳聖は、養育して貰ったお寺への義理がある上に、尊良親王の再現としての誇りがあったので、「私は他家の養子にはなりません!」と、再三お断りしました。

しかし、小田垣博士は熱心で、何度も何度も人力車に乗って芳聖の下宿へ通って来られるので、芳聖は、「実は私は、後醍醐天皇第一皇子、尊良親王の生れ変わりで、尊良精神で生きています。どんなに生活が苦しくても他家の養子にはなりません!」と、降誕にまつわる由来話をしました。

🟠御匣殿みくしげどの再現 小田垣清子

すると小田垣博士は、がっかりして悄然しょうぜんとして帰って行かれましたが、その翌日又やって来て、文献史料を調べた所「貴方の前世の尊良親王妃の名前は西園寺さいおんじ公顕きんあきむすめ「藤原清子」(御匣殿みくしげどの)で、うちの養女「清子」と全く同じ名前だ!

しかも干支も丁未ひのとひつじで全く一緒で偶然とは思えない。あなたが尊良親王の再現なら、うちの清子は尊良親王妃(御匣殿みくしげどの)の再現だ!是非小田垣家の養子になってもらいたい」と口説かれたのです。

🟠小田垣博士の要請を受け入れ小田垣邸に転居

芳聖は、この「小田垣清子」の出現に、前世の因縁を痛感し、この話に大変心を動かされたのです。

京都へ来てからの生活費も学費も誰の世話にもならず、全部独力でまかなって来たのだからと、芳聖が中根正親先生や山本窺園けいえん先生に相談したところ、

両先生が「是非、小田垣先生の要請を受け入れて、大学者になってくれ給え!」と賛同して下さったので、芳聖は、大正10年(1921年)9月、下宿先の藤田家から左京区黒谷町の小田垣邸へ転居したのでした。

京都市左京区黒谷町(地図マピオン)

🟡小田垣清子と婚約

左京区黒谷町の小田垣邸には、小田垣博士ご夫妻、清子さんの他に家庭教師、書生、上下の女中がいて、「若様」となった芳聖は、立派な書斎と寝室が与えられました。

そして翌大正11年(1922年)の正月元日、芳聖は数えで19才、清子さんは16才になった祝膳の席で、小田垣先生御夫妻から「二人は将来夫婦となって小田垣家の家名を挙げ御国のために尽すように!」と婚約の宣誓をさせられました。芳聖は清子さんと婚約したのです!

大御神の教導計画とは言え、実に不思議なロマンス物語ですね!💓💝💖

🟠教導計画により婚約解消か!富永老師の横やりで母元子が説得

ところが、この養子縁組の話を聞いた富永老師が「お寺で養育して貰った恩は忘れたのか!将来お寺へ帰って来て末寺の住職になって貰わねば困る。養子にはやれない!」と猛反対し、

芳聖の母・元子さまがお寺の代弁者となって「母危篤、すぐ帰れ!」の電報で芳聖を名古屋へ呼び寄せ、「小田垣邸を出て婚約を解消しなければ母はのどを突いて自害します!」と説得されたので、芳聖は、仕方なく婚約を解消して小田垣邸を出て、元の藤田家の下宿に戻ったのでした。

大御神の教導計画では、芳聖は将来、安楽寺の末寺の住職になる運命さだめなので、婚約解消になったのだと思いますが、悲恋もまた人生勉強のひとつでした。

芳聖を将来の夫と心に誓った清子さんは、嘆きの余り別れる時に「私は一生結婚しない!」と言われ、その言葉通り、後に来た養子を嫌って東京の実家に帰り、昭和20年(1945年)39才で病死しました。肺結核でした。

🟠東京の明治法科大学に進学

さて大正12年(1923年)3月、芳聖は、夢多き多感なる5年間の京都での学生生活を終え、郷里に帰ってお寺の住職となり、母親と弟妹を引き取ろうと提案したのですが、母・元子は芳聖の申し出を受け入れず、さらに進学するよう勧めたので、芳聖は東京の明治法科大学へと進学することになりました。

💟天照大御神の御子教導計画に基づく神謀援慮しんぼうえんりょにより、芳聖の初恋は悲恋物語となりました。御匣殿みくしげどのの再現・小田垣清子さんが登場するなど、今回の御教導は実にドラマチックでした。

💟第16話 関東大震災に遭遇-臨死体験で人生観が一変
🟢天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録

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